大河ドラマもいよいよ盛り上がってきたようです。(左写真はその宣伝ポスター)
それにあやかったわけではありませんが、久しぶりに琵琶湖へ一泊旅行をしてきました。
というのも琵琶湖の東岸にはかの時代に思いを巡らせることのできる有名な城跡が比較的多く存在するのです。
右下の地図に、琵琶湖東岸にある三英傑時代の城とそれにかかわりの深い人物を記載してみました。
桜の花にも期待をしていましたが、この地方はどこも開花寸前ということで、今回の旅行ではお目にかかることはできませんでした。
古来琵琶湖は北国と京の都との重要な流通ルートで、時の権力者は水運支配に注力していたようです。
かの平清盛は琵琶湖から日本海への運河開削を計画していたとの歴史的事実もありますし、織田信長も水運支配権に加え、京への要衝の地としても着目し、天下布武を成し遂げました。(最近の理解では、天下=畿内)
当日の天候は雨に向かっての曇天でしたが幸い気温はそれほど低くはありませんでした。
さっそく長浜城跡近くに建てられた長浜城歴史博物館を訪れました。
もちろん長浜城は、秀吉が羽柴秀吉時代に築城したものですが、築城に当たっての資材を、攻め落とした浅井長政の小谷城から運び流用したことが知られています。
また関ヶ原の合戦以降に長浜城は廃城とされその資材は彦根城に多く使われた、、、、というのも歴史ですネ、、、、
眼下の公園内に、紅白の梅の花?が見えています。
館内はすべて撮影禁止だったので何も掲載できませんが、多くの資料が丁寧に展示されており、多くの知識を得ることができました。
もちろん豊国神社は秀吉が亡くなったのち、このゆかりの地に建立されたものですが、徳川政権下では存続が許されず、廃止。
しかし住民の意志は固く、「えびす宮」「ゆたか宮」と名を変え、明治になってようやく「豊国神社」が復活したという逸話があります。
写真右端にある石柱に「長浜恵比寿宮」とあるのはその所以です。
黒壁スクエアは江戸時代から明治にかけての伝統的な和風建造物が多い北国街道と美濃谷汲街道が交差するあたりの町おこし地域の呼称で、その美濃谷汲街道の西側からのアーケイドの入口に、写真のようなレリーフのような造形が掲げてありました。
歌舞伎の連獅子のようです。
幸いにもこの日は小雨がぱらついていましたので、アーケイドは大助かりでした。
ちなみに黒壁館は、30號館以上あるようです。
そろそろお昼時です、「湖のスコーレ」という店?を見つけました。
スコーレはギリシャ語で学校を意味し、湖国の暮らしの知恵を学ぶ場所として広々としたストアに喫茶室、チーズの製造室や醸造所、ギャラリー、体験教室など学びのきっかけを散りばめた商業文化施設だそうです。
この喫茶室でランチセットを選び、家人は「おうみ海老の濃厚海老ぽた坦々うどん」を、私は「近江牛の伊吹山発酵カレー」をオーダーしました。サラダ、デザート、コーヒーもついて量も適当でおいしくいただきました。
長浜曳山祭は、長浜市で毎年4月に開催される祭で、京都の祇園祭、高山市の高山祭と並んで日本三大山車祭の一つとされているとか、、、、ちなみに曳山の数は合計13あるそうです。
途中で「芋きんつば」なるものを見過ごせず、即お買い上げ、、、、
明治20年2月、明治天皇皇后両陛下が京都行幸の帰路、大津から船を利用し長浜に上陸、鉄道への乗り換え時間に滞留する施設が無く、長浜の実業家・浅見又蔵氏が私財1万円を投じ3ヶ月余りの突貫工事で完成させたとのこと。
ちなみにその時の滞在時間は1時間だった、、、、
慶雲館の名前は伊藤博文によるもの、、、、左写真上に彼の筆による扁額がありました。(これはコピーとのこと)
ただし別部屋にあった犬養毅による扁額は実物でした。(左写真下)
この「天行健」は古代中国の「易経」にある言葉で、「天の運行は規則正しく、健やかである」という意味で、君子もこの天の精神に倣い、自ら努めて向上し、絶えず努力し続けるべきだという教えです。
この部屋の群鶴図襖や梅の花をかたどった照明器具も明治時代に製作されたものとのこと。
巨石を多く使った広大な庭もたまたま工事中とのことで、十分には拝観できませんでしたが、立派なものでした。
左写真は、推定20トンはある自然石の石灯篭で、滋賀郡志賀町から船で湖上を運ばれたといいます。
正式には「長浜鉄道スクエア」といい、鉄道フアンなら誰でも一度は訪れてみたいところなのです。
このスクエアは「旧・長浜駅舎」に加え「長浜鉄道文化館」・「北陸線電化記念館」の3館で構成されており、ゆっくりと見学したかったのですがホテルのチェックイン時間が気になって、またの機会とすることにしました。
つづきは その2 にて、、、、