2015年5月18日月曜日

はからずもの京都葵祭

 先日大阪に出かける予定があって、「せっかくのことだから京都に一泊しようか、、、、」ということになりました。
 いつものホテルに連絡したところ満室でキャンセル待ちとのことでしたが、直近になってOKの連絡がありました、、、、と家人が「そろそろ葵祭のころでは」、、、、そうなんです、だから混んでいたんです。おかげさまで、はからずも葵祭見物ができそうです、がもう一難ありました。当日の天気予報が雨なんです。葵祭は雨の場合順延か中止になります。

 当日の早朝インターネットで調べると催行する旨の掲示がありました。天気予報も好転しています。
 いざ出発!!と勇んで出かけました。

 葵祭の行列は左図のように京都御所を出発してゴールの上賀茂神社までの約8kmを500mもの行列がしずしずと進んでいくわけです。
 今回は急なことで観覧席というわけにも行かず、路上での見物となりますので事前にネットで調べてみました。おすすめは左図の左上、加茂川沿いの道路が良いとありましたが今回は左図上で見物場所と示した、河原町丸田町の交差点の北あたりで行列を待ち受けることにしました。

 京都御所の出発が10:30ということで11:15ごろに先頭がやってきました。
 主催者の車を先頭に、ついで男女の騎馬警官が続き雰囲気を盛り上げます。鞍には京都府警察平安騎馬隊とありました。
 はるか南のほうに本列を先導する左右各3騎の騎馬隊(乗尻 のりじり)が小さく見えています。
 天候はますます好転し(しすぎ)気温は30度近いと思われます。烏帽子などにつけた葵の枝もすでにしおれてしまってます。
 なれない装束をして、ゆっくりと全体のペースを作りながら進むのは大変です。聞けばかなりの人がアルバイトとか、、、、左写真は直垂の胸紐が結べず、先輩に結んでもらっているところです。 

 平安の昔、京都で祭りといえばこの賀茂祭上賀茂神社と下鴨神社という賀茂氏の神社で五穀豊穣を祈願する祭り)を指したほどに王朝風俗の伝統が残されている数少ない祭ですが、応仁の乱以降途絶えていたものが江戸時代(元禄7)に再興され、この時代以降行列をの葉で飾るようになって葵祭の名が定着したようです。

 この祭りの呼び物である行列はもともと勅使のためのものであったものが昭和30年代になって勅使勅使代)を中心にした本列に対し、斎王代を中心にした女人列斎王代列)が創設されたようですが、今では華やかな女人列を主役のように思う人も少なくないようです
 右上写真は本列の主役である勅使代のために用意された牛車(ぎっしゃ)で藤の花で飾られています。(詳細はネットなどで、、、、)

 本列は省略して、いよいよ斎王代です。
 重い衣装を着け、白塗りの化粧で大変ですが傘を差しかけてもらっている高級女官(命婦 みょうぶ)は幸いです。遠くに斎王代が乗った腰輿(およよ)が見えてきました。

 斎王代とは、その名称が示すとおり、斎王に代わるもの斎王の代理なので。斎王は「いつきのひめみこ」ともいい、「斎」は「潔斎して神に仕えること」を言い、かつて伊勢神宮や賀茂の神社に奉仕した未婚の内親王のことなので。平安の昔賀茂祭(いまの葵祭が国の祭であったころ、賀茂の宮には斎王がおられ祭に奉仕していました。


 現在は本物の勅使斎王が行列に加わることはないので、それぞれ勅使代・斎王代ということになります。
 今年の斎王代第60代に選ばれたのは白井 優佐さんで、斎王代に現役CAが初めて選ばれた事で話題になったとか、、、、

 腰輿(およよ)に乗って涼しげですが、豪華な十二単衣の重さは30kgもあるそうです。

 左写真は采女(うねめ)です。各国の豪族から天皇に献上された美女達で、斎院の神事を司りました。斎王代と同じく頭に日陰葛という植物に由来する「日陰糸」という組紐を垂らしています。神に仕える女性として清浄な存在である事を示すためのものだそうです。 徒歩ではありますが存在感を感じました。

 また、その後方に見える騎乗の女官は 騎女(むなのりおんな)でこれも斎王付の巫女(みかんこ)です。

 ということで約45分間、行列を堪能しました。
 印象としては、古い言葉に「箱根山駕籠(かご)に乗る人担ぐ人そのまた草鞋(わらじ)を作る人捨てた草鞋を拾う人」とあるように、階級社会絵巻でした。当時の人たちもこぞって行列を観覧したといいますが、果たして何を思ったのでしょうか。
 白丁(はくちょう)姿のアルバイトが貴族役と同一目線でさっさと先頭を歩き、目付け役の老人から観客の面前で叱責されていましたが、本人たちには何がなんだか理解できなかったようでした。

 はからずもの京都とはいえお目当ては多く 、今回も日ごろ鍛えし健脚?のチェックをする破目となってしまいました。

 葵祭の行列に間に合うよう、京都駅に10時前に到着し、地下鉄で丸太町駅へ移動。(右地図の左上)次いで徒歩にてホテルへ立ち寄り、荷物を預け、軽装にて見物場所へ急ぎ、、、、上述の次第にあるように最初の目的は無事果たしました。 

 時はすでにお昼近くなので、先回も立ち寄った祇園の貴久政へランチを摂るべく加茂川の散策道を急ぐことにしました。

 すこしあわてたせいか、地図を見間違えて四条を通り過ぎ、そして引き返すという失敗をしてしまい平謝りです。


 ようやく予約時間に間に合っておいしい昼食にありつけました。 



 ここ貴久政の出汁巻き卵は他に類を見ないほどのおいしさです。なにせ目の前で焼いたものを、湯気の立ちのぼるのを見ながら食すのですからもうこたえられません。
 4人もの料理人には少し狭いカウンター内から外人も含む満席の10人のお客さんへのサービスも心地よく、ついついビールのお代わりもしてしまいました。

 貴久政を出てほんの少し歩いたところに先回気になっていた菓子屋さんがあり、店に入ってみました。左写真の左上が由緒ありげな看板、右下が暖簾、中央下が看板にあるお菓子の豆平糖です。

 ここは「するがや祇園下里」といい、文政元年(1818)、総本家駿河屋より暖簾分けを得て創業以来、昔ながらの手作りの製法を守り続けている京御菓子司でした


 現在の店舗である建物は明治28年(1895)にお茶屋として建てられた住宅で、平成5年には京都市登録有形文化財に登録されたものだそうです早速お土産に豆平糖を買い求めました。


 ここ祇園では宅急便屋さんの店舗も趣を凝らしていました。(右)

 さらに花見小路通に出て四条通を南に下ると歌舞伎で有名なお茶屋一力亭が左側にあり、外人観光客がガイドの説明を受けていました。


 

 




 このあたりのお店の入口には何か変わったものが飾られていますがどこかで耳にした「厄除けちまき」がこれなのでしょう。

 左はとあるお店にかかっていた暖簾です。鯰と鰻が巴にデザインされています。どちらがどちらかわかりますか?ヒントはヒゲです。
 このような暖簾もあちこちで見られますがその洗練さには驚かされます。

 このあと建仁寺にチラと立ち寄って高台寺を目指しましたが例年にない暑さと長い上り坂に白旗を上げ、よくよく確かめずに飛び込んだ店が「水円」でした。

 本業は今売り出し中の京料理屋さんですが、喫茶も営んでいたのです、どうりで垢抜けた佇まいでした。

 私は黒蜜をかけたかき氷、家人はこの店自慢のつめたく冷やした胡桃餅で茶をいっぱい、、、、やっと元気を取り戻しました。

 さらに坂を登っていくと左写真のような提灯がありました。東山 高台寺 ねねの道とあります。ねね寧々、秀吉の正室北政所、高台院 みな同一人物です

 高台寺は豊臣秀吉の正室であった北政所(高台院)が秀吉の冥福を祈るため建立した寺院で、寺の名は高台院にちなんでいます。禅宗寺院ですが、秀吉と北政所を祀る霊廟としての性格をもった寺院だそうです


 さらに緑のトンネルの階段を上るとようやくにして高台寺です。

 左は玄関に飾ってあった「夢」と大書された衝立です。
    「露とおち 露と消えにし 我が身かな
           難波のことも 夢のまた夢」

 は秀吉辞世の句ですが、残された高台院もまた昔を偲んだであろうとしてのちにこの寺の八代管長が揮毫したものとか、、、、

 小堀遠州の作とされるこの庭園はところどころにゆかりのお堂などがあり広大で見事なものでした。

 ということでそろそろホテルに帰る時間です。乗り物の利用も考えたのですが、、、、やはり、歩こうか。

 四条大橋の東南角あたりにある京都南座です。ふと頭をめぐらせると北座という文字が目に飛び込んできました。
 もともと京都にはいくつかの芝居小屋があったそうで、明治時代には南座・北座の2座にまで減り、ほどなくして北座もなくなったということです。
 今ある北座は場所こそ元の場所なのですが有名な和菓子の「八つ橋」が建てた複合ビルの名前です。

 ようやく四条大橋までやってきました。そろそろ夕方の景色になりつつあり、川岸の桟敷の灯りも見分けられるようになってきました。
 そして土提の上にはパリのセーヌのように若いカップルがずらり、、、、

 春宵一刻値千金とか、われわれも健康であることに感謝しつつホテルへ、、、、

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