今回は由比ヶ浜にホテルを取り、長谷寺に参拝し、大仏さんと久々の再会をし、友人から教わった「段葛 こ寿々」なる店で蕎麦を手繰ろうと言うわけです。
でも地図で調べて驚きました、長谷寺と「段葛 こ寿々」はずいぶん離れています、およそ2kmはあるでしょうか、まあいいか、、、、
前日に新幹線の車窓から富士山を撮影しました。お定まりの、富士川鉄橋越しの冠雪富士です、カレンダーの絵のようにうまく撮れました。
多少古いですがその分落ち着きがあり十分にくつろげました。
翌朝少し早起きをして朝食前の散歩に出かけました。
シャレた家々をあれこれ観察しながらものの10分もかからずに由比ガ浜に出ることができました。
左写真は東方向にある逗子海岸を遠望したものです。
天候はあまりよくはありませんが雨の心配はなさそうです。
朝食は洋食を頼んでおきましたが、配膳方式で気を良くしました。この歳になるとビュッフェ・スタイルは疲れます。
ホテル前の由比ヶ浜大通りから西側を望むと突き当たりに長谷寺の大屋根につけられた金色の飾りが見えました。なるほどこの道路は「観音大通り」とも称されるのでしょうか。(写真中の右上)
昨日ホテルに着いたときにはこの道路は渋滞していましたがさすがに朝は車も少なく、まだ開店してはいないものの古い店々の佇まいも楽しみながら歩を進めました。
まもなく山門に到着しました。赤い大提灯が下がっていますが、浅草の浅草寺をはじめ観音様を祭ってあるお寺にはよく見かけるようですが何故かはわかりません。
きれいに刈り込まれた門前の松と写真中の右側に見えるタブの樹(椨 クスノキ科)が印象的でした。
ここの本尊である十一面観音像の由来は、大和の長谷寺(奈良県桜井市)の開基でもある徳道が楠の大木から2体の十一面観音を造り、その1体を本尊としたのが大和の長谷寺であり、もう1体を祈請の上で海に流したところ、その15年後に相模国の三浦半島に流れ着いたとありますが像の高さは9.18メートルもあり、木造の仏像としては日本有数だそうです。
まもなく山門に到着しました。赤い大提灯が下がっていますが、浅草の浅草寺をはじめ観音様を祭ってあるお寺にはよく見かけるようですが何故かはわかりません。
きれいに刈り込まれた門前の松と写真中の右側に見えるタブの樹(椨 クスノキ科)が印象的でした。
ここの本尊である十一面観音像の由来は、大和の長谷寺(奈良県桜井市)の開基でもある徳道が楠の大木から2体の十一面観音を造り、その1体を本尊としたのが大和の長谷寺であり、もう1体を祈請の上で海に流したところ、その15年後に相模国の三浦半島に流れ着いたとありますが像の高さは9.18メートルもあり、木造の仏像としては日本有数だそうです。
これを鎌倉に安置して開いたのが、鎌倉の長谷寺(海光山慈照院)であり長谷観音とも呼ばれているのです。
長谷寺は花の寺とも呼ばれ紅葉も期待していたのですがほどほどでした。
境内の回遊路にはアジサイなどが多くあり、季節には佳い眺めになることでしょう。
そんななかでもいくつかの花が彩りを添えていました。
ピンクのシュウメイギクは珍しい?
こちらはシャクナゲですが季節はずれです。
濃い赤が際立った黒光と言う名前のボケ(木瓜)ですがこれも少し早いようです。
展望台の案内図に従って裕次郎灯台なるものを超望遠で狙ってみました。
真偽のほどはわかりませんがそれらしいものが沢山のウィンドウサーフィンの向こう側に写っています。
裕次郎灯台と言うのは故石原裕次郎の三周忌を記念して兄慎太郎が基金を募って建てたものだそうで、正式には葉山灯台といいます。
長谷寺をゆっくり時間をかけて見物したのち、大仏さんに再会するために出かけました。前にお会いしたのは中学の修学旅行のときでしたからもう60年も経っています。
長谷寺のすぐ前の参道に古い建物があって何か案内板がありました。
それによればこの建物は對僊閣(たいせんかく)という明治末期からの旅館でかつて高浜虚子がホトトギスの会を開いたとか、与謝野晶子や島崎藤村の奥方が宿泊した歴史が語られる、、現在も営業中。
絵様肘木風の持ち送り板で支えられた正面の高欄や欄間窓など、社寺建築で見られる意匠が多用された建物です。(鎌倉市景観重要建築物にも指定)
鎌倉時代に造られましたが室町時代にかけて大風、地震、津波などかさなって建物はありません。
なお本像の鋳造に際しては宋から輸入された中国銭が使用されたとか、、、、
左写真の黒い穴が頭の部分で、その周りにはってあるテープ状のものは耐震補強のFRPです。
さすがに草鞋も大きいです。
途中で見かけた鎌倉彫のお店です、何かこだわりを感じます。
昨日休息のため立ち寄った蕨餅のお店で今から行く「段葛 こ寿々」と同じ店ですがここでは蕎麦は商っていません。
ようやく六地蔵の交差点までやってきました。
ここは、鎌倉時代、問注所での裁きの結果、有罪となった者の処刑場の跡地で供養のために六体の地蔵が建てられたとのこと。(右端の物陰にもう一体あります)
六地蔵の背後にある、松尾芭蕉の「夏草や兵どもが夢のあと」が刻まれた句碑にちなんで、この辺を「芭蕉の辻」とも呼ぶそうです。
隣接した小さな公園に時計塔がありました、調べてみるとこれは昭和59年(1984)に旧駅舎を建て替えた際それまであった屋根の上のシンボルをここに移して保存しているとのことでした。
二の鳥居へ着きました。この奥が鶴丘八幡宮ですが時間の関係でここからのお参りです。
この参道のことを「段葛(だんかずら)」と呼びますが、この名は、葛石を積み上げて造られたことによります。
またこの「段葛」は参拝者に鶴岡八幡宮を遠くに見せるため先に行くほど狭く造られています、遠近法の手法は古くからあったんですね!
そんなわけでこの老舗の蕎麦屋さんの名前「段葛 こ寿々」も納得です。
左写真の右下の看板もいっそうありがたく見えます。
やっとお昼にありつきました。
これが「こ寿々蕎麦」で、お皿に盛った蕎麦の上に天カスと海苔、薬味そして中央には大根おろしが盛ってあり、その上から汁をかけまわして食べるのですが、きわめて腰の強い蕎麦との相性は抜群で、ひさしぶりにおいしい蕎麦をいただきました。
これが「こ寿々蕎麦」で、お皿に盛った蕎麦の上に天カスと海苔、薬味そして中央には大根おろしが盛ってあり、その上から汁をかけまわして食べるのですが、きわめて腰の強い蕎麦との相性は抜群で、ひさしぶりにおいしい蕎麦をいただきました。
私たちはほとんど待つことなく席に着くことができましたが、食べ終わって外に出たとき、路を歩く人の「ここはいつも混雑している店なんだけれど、きょうはずいぶん空いてるね」という会話を耳にしました、ということは、、、ずいぶん幸運でした。
おなかも満ちて元気が出てきたので、もと来た道をまたゆっくり江ノ電の由比ヶ浜駅まで再度散策することにしました。
上写真は途中見かけた紅葉した蔦です。
おなかも満ちて元気が出てきたので、もと来た道をまたゆっくり江ノ電の由比ヶ浜駅まで再度散策することにしました。
上写真は途中見かけた紅葉した蔦です。
由比ヶ浜通りを江ノ電の由比ヶ浜駅近くまで来たとき、帰りの電車の中で食べようと麩まんじゅうを求めました。
この店は「麩帆(ふはん)」という名の知れた生麩の店で、笹で包んだ麩まんじゅうは皮がしっかりしており中の餡のすっきりした甘さがなんともいえないものでした。
由比ヶ浜駅で電車が入ってくる様子です、車両は何種類もあるようですが、昔からあるようなおとなしい塗装です。
今日はひさしぶりによく歩きました、後でチェックしたら16000歩をこえていましたが古い町を気ままに歩くのもいいものだと感じました。
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