2015年3月31日火曜日

九州小旅行(2/3)(黒川温泉-小鹿田焼の里-湯布院)

 今回利用した宿は筑後川の源流のひとつ火焼輪知川の上流にある瀬の本・黒川温泉にありました。左は案内板の写真です。

 見てわかるように客室は11室のみで、お子様はおことわり、基本的にお二人様用とのこと、、、、


 右写真は部屋の前の通路です。左側に客室が11並んでいます。

 中央部あたりから石造りの階段を右へ上ると古民家を移設したという母屋(エントランス+ダイニング)へと続きます。

 左は室内の入口側にある次の間で、板の間でテーブルがあり、天井の梁や照明、障子などがうまくあしらってありました、この奥が和室の客間です。

 さらにその奥(南側)にはかなり広いベランダがあり、景色を楽しむようになっていました。
 ただ見てわかるように、まだ芽生えには間があり一面の枯野です。足元には小さな川が流れておりせせらぎが聞こえました。

 そしてその右側には売り物の、各部屋つきの浴室(源泉・かけ流し)がありました。(左写真)

 窓が広くとってあり、開け放つとせせらぎの音も手伝って露天風呂の雰囲気です。(湯気で曇っていますが、誰もいません、、、、)


 夕食は前述したように母屋のダイニングでです。(右)
 照明が落としてあり、よく見えませんがなかなか面白い木組みが見られました。

 料理は和食ではなく、創作料理でおいしく食べられましたが、量が多く、わけても馬・牛・豚の陶板焼きにいたっては途中でギブアップ、、、、ひさしぶりにおなかの皮のストレッチをしました。



 翌朝の朝食も同様で、右下写真の配膳でこれだけかと思ったら次から次へと料理が続きました。

 それでも誘惑には勝てずまたまたストレッチ、、、、 

 朝食後の時間を使って散策をしましたが、景色はどちらを見ても枯野ばかりでした。


 途中にあったこのあたりの案内看板です、これすべて温泉旅館です!!


 宿をチェックアウトする前に今日の予定を立てました。

 右地図の下にある黒川温泉を出発、北上し、左上の小鹿田焼の里を訪ね、その後日田ICから大分自動車道を湯布院までの行程です。

 小鹿田焼の里(おんたやき)については、この旅行の日程が確定したあとNHK-TVで紹介があり、ぜひ立ち寄ろうということになっていました。
 この日も雨こそ降ってはいませんでしたが、もうひとつ空模様がはっきりしなかったことも考慮してこの行程になりました。


 出発してしばし、熊本県から大分県・日田市に入り、松原ダムを過ぎて山間を走っていると、かなり大きな梅林を見つけました。まだこれから満開の様子、、、、ということはこのあたりの春はまだまだ遠い。

 さらに車を駆って日田ICの近くの市街地を通り過ぎ、再度山間に入っていこうとしたとき田畑の中に小さな地蔵堂らしきものをみとめました。車を脇に寄せてしばしの休息をとりました、目的地はもうすぐです。

 ようやくにして小鹿田焼の里に到着しました。

 小鹿田焼(おんたやき)は、大分県日田市の北山間にある皿山を中心とする小鹿田地区で焼かれる陶器をいいます。平成年その陶芸技法が国の重要無形文化財に指定され、さらには平成20年にはこの地区全体が「小鹿田焼の里」の名称で重要文化的景観として選定されました

小鹿田焼はもともと朝鮮から渡来したもので、飛び鉋、刷毛目、櫛描きなどの道具を用いて刻まれた幾何学的紋様特徴があります。

 民芸運動提唱者である柳宗悦が昭和年にこの地を訪れ小鹿田焼を評価したことや、日本の陶芸界に大きく名を残したイギリスの陶芸家、バーナード・リーチも陶芸研究のため、ここに滞在して昭和2939年)作陶を行ったことなどにより、小鹿田焼は日本全国や海外にまで広く知られるようになったということです

 わけてもバーナード・リーチはすでに朝鮮でもみられなくなった飛び鉋の技法をこの地で目の当たりにして狂喜したとか、、、、
 左写真は小鹿田焼陶芸館に陳列されていた彼の作品で、1954(昭和29年)の数字が見られます。さらに描かれているのは彼のお気に入り「飛び鹿」です。その左にあるピッチャーはそのデザインを踏襲して今でも彼の工房で作られています。


 右図は小鹿田焼の里の窯元を示した案内図で、小鹿田焼陶芸館の記念スタンプをおしたものです。

 小鹿田焼陶芸館は左中ほどにあり、ここから右下方向に、川に沿って下っていきます。
 窯元は10軒あり、実作業を観ることも出来ますし、直販もあります。

 左写真は小鹿田焼陶芸館から小鹿田焼の里を俯瞰したものですが、若い二人連れが購ったお気に入りを手に、重さもものともせずうれしそうに坂を上ってきます。

 谷間にある登り窯とレンガを積んだ煙突です。この地でもまだ春は遠く、紅梅もほとんどが蕾です。

 近くで採取された原料の陶土は左右写真の「唐臼(からうす)」で微細に粉砕されます。左写真では3機あります。


 鹿威し(ししおどし)のように受け皿に溜まった水が受け皿ごと落ちる反動によって陶土を挽くその音は「日本の音風景100選」の一つにも選ばれているとか、私たちもその音と時間の経過をしばし立ち止まって体感しました。


 この里の中ほどにある窯元の作業場からさらに下手を見た景色です。煙があがっているのは陶土を乾燥する炉です。




 写真は里の中ほどにある共同登り窯です。製品はすでに窯だししてありこれから次の準備にかかるところのようです。窯に火が入るのは月に一度くらいとか、、、、


 それぞれの窯元には写真のような即売所があり、たいていは無人ですが、呼び鈴を鳴らすと応対に出てきてくれます。
 また棚にあるものはそこそこの?ものですが、希望をいうと奥からなかなかのものが出てきます、もちろん御代も、、、、


 黄色いミツマタの花がきれいでした。



 右写真は私たちが求めた主なものです。基本的に薄い色の飛び鉋模様が多いのは好みです。奥にあるピッチャーは以前バーナード・リーチ関連の展示会に出かけた折に気に入って求めてきたものです。縁は異なもの、、、、


 遅ればせながら「飛び鉋」とは轆轤(ろくろ)上で回転する作品に湾曲し先のとがった鋼片(古い柱時計のぜんまいバネが良いとか)を当て、当て方によって生じる鋼のバウンドによって器物の表面に刻みを入れる技法で、皿の面に施された、帯状のリズミカルな模様で(いくつかの写真を拡大してみてください)

早春の平日ということか、訪れる人も少ないこの里でゆっくりとした時間をすごすことが出来ました、ということで湯布院にむけ出発です。


 日田ICから大分自動車道にのり、由布院に向かいます。
 途中休息のために立ち寄った玖珠サービスエリアから南を見た景色です。
 テーブル状の山はメーサ(スペイン語)と呼ばれる卓状台地で、この玖珠町は日本では珍しいメーサの大集団地だそうです。

 かくしてようやく今日の宿泊地である由布院につきました。
 ホテルに到着してびっくり、繁華街?のなかにありました。

 つづきは次回、、、、

2015年3月23日月曜日

九州小旅行(1/3)(熊本城-黒川温泉)

 ひさしぶりに九州へ2泊3日の小旅行です。
 主な目的は温泉に行きたい(計画した1月は大変に寒かったので)ということで、宿を黒川温泉と湯布院の2ヶ所に手配し、あとはほとんど無計画でレンタカーを駆っての気まま旅です。

 この3日間の天気予報は芳しくなく、出発当日は小雨でした。
 でもひとたび熊本空港に向けて大空に飛びたてばそこは快晴、空が美しいです。今回の機体は往復ともボーイングB737-800で、機内はガラガラでした。

 熊本空港に到着です。さすがここは「くまモン」のご当地です。駐機中の機体にもマークが、、、、(拡大してみてください)

 レンタカーを使うのは今回初めてなので多少戸惑いましたが、無事手続き終了、車種も使い慣れたアクアです。
 でもナンバーを見てビックリ!! 96-83(苦労・破産)は少々キツすぎます。まあ、このことを念頭に安全運転ということにしましょう。

 熊本を訪れたからには何といっても先ずは熊本城です。

 左地図に見られるように、何もなければ西方に40分くらいと見ていましたが、実際には日曜日のお昼近くで、道不案内のため繁華街を通ることになり、1時間以上の時間を要しました。

 ここ熊本市内は私たちにとって懐かしい路面電車が走っていました。

 やはり到着に手間取ったため、少し離れた三の丸駐車場にようやく滑り込み、熊本城へと歩を運びました。


 下に熊本城の見取り図を掲げました。ほぼ数字の順に進み、写真もそれに対応しています。


 熊本城は加藤清正が従前の隈本城をベースに清正流といわれる築城技術を駆使して1600ごろ完成したものです。

 しかしながら子の忠広の代になって改易されていますので加藤家が熊本城主であったのはわずか26年間でしかありませんでした。
 その後は細川家が明治になるまで続いています。
 熊本城の歴史的意義は、はるか下った明治になってからの西南の役の時点においてです。

 右写真は上図左上の ① からの写真です。
 正面に戌亥櫓、そしてその右奥に天守が見えます。天守はこの城の特徴である大・小一体となったものです。(小天守は木の枝に遮られて良く見えませんが)


 そして ② の西大手門から、お城ではお定まりの直角に曲がっての入場です。 また大手門が同じ場所に東西2ヶ所あるのも珍しいと思います。 (この城にはもうひとつ北大手門もあります)

 同じく ② 地点から右側を見ると立派な石垣が長く続いています。
 このあたりの木々は櫻で、もう1・2週間も過ぎれば見事な景色となるでしょう。(熊本城は櫻の名所としても知られています)

 西大手門を入ったところに、特別公開されている南大手門のなかで、西南戦争特別展が開催されているとの案内板がありましたのでさっそく立ち寄りました。
 右は南大手門の内部で櫓としての機能も十分果たせたと思われます。興味ある展示物が所狭しと並んでいましたので時間を忘れてしまいました。

 西南戦争は野に下った西郷隆盛軍と明治政府の帝国陸軍によるいわば近代戦ですが、その要となったのが熊本城攻防戦でした。
 西郷軍はついにこの城を抜くことができず、以後衰退し、鹿児島・城山の戦いで西郷隆盛の自決へと続きます。

 左写真は展示されていた熊本城籠城軍の首脳部です。メンバーの名前を見て驚きました。のちの日露戦争のときに戦った将軍たちそのものです。
 これらのリーダが、「たとえ農民兵であっても論理的な?作戦指揮と兵装さえあれば、あの勇猛果敢な薩摩軍に勝利できた」という経験を伝承できず、その後太平洋戦争にむけ、ひたすら精神論に走ったのか不思議です。

右上写真は土塀を後背から支えるもののようですが、石をくり貫いて材木を通すやり方はあまり見たことがありませんでした。(この地域ではあたりまえ?)

 本丸から見上げた熊本城の天守です。天守は、連結式望楼型大天守は3重6階地下1階、小天守は3重4階地下1階で案内の人にお聞きしたところ、大天守は武器庫で小天守は居住区とか。

 景観は黒色ですが、松本城ほどではありません。この黒は表面に貼ってある板が柿渋で処理してあることによるものだそうです。

 左写真は大天守の展望台から本丸を見下ろしたところです。右上に見える大きな屋根が、本丸御殿です。

 お城そのものは新しく建てられたもので、古いお城のような狭くて急な階段ではなくごく普通のコンクリート階段で助かりましたが、大天守、小天守と二度の登攀は少々疲れました。(、、、、は高いところへ)

 右は本丸御殿にある王昭君を描いた「昭君の間」でいわゆる謁見の間です。
 この昭君」は「将軍」に通ずるところから清正が熊本城に秀頼を擁するつもりであった、、、、などなど歴史は、、、、

 熊本城は石垣を観る、、、、といわれるように、いたる所に立派な石垣があります。これこそ築城の名手といわれた清正流なのでしょう。景観のみならず、西南戦争の折、戦前に天守をはじめ主な建物が失火?により消失してしまったにもかかわらず、わずか4人の守備兵で1万4千人もの西郷軍を1名たりとも城内に入れることなく撃退したという事実はその実用性をも立証したということでしょう。

 右写真は ⑤ 地点から天守方向を見たものです。
 中央の石垣において上方へ急に立ち上がっているのが新しいもの、その手前に緩やかに、色濃く見えるのが修復前の石垣跡です。どちらが登り易いか、、、、築城技術の進化が見られます。

 ⑥ 地点から天守を見上げたところです。
 傍らの梅林はこれから満開をむかえようとしていますので、櫻においてをや。

 このほかにも今回公開の重要文化財櫓群のひとつである七間櫓や不開門などなど、興味に任せて見物しているうちに時の経つのを忘れてしまいました。

 当初は高千穂に立ち寄って黒川温泉へ、、、、とおもっていましたが、天候も雨はないもののはっきりせず、冒頭地図のように阿蘇山の北側を回って一路黒川温泉を目指すことにしました。

 途中途中には道の駅があってゆっくりと休息をとりながらの道行です。

 道の駅「阿蘇」では「くまモン」がお出迎え、やはり本場では絵になります。


 
 とある山中の道の駅で大きな鯛をゲットしました。いも餡、あずき餡の2種類入りです、久しぶりに懐かしい味を堪能しました。

 昼食の時間も含め、約3時間強で目的地である黒川温泉に到着です。
 写真は宿の入口です。
 さてゆっくり温泉にでも浸かりましょう。