2012年6月27日水曜日

AVR と Arduino  (2)


 さて前回にひきつづき、今回はArduino IDE 統合開発環境Integrated Development Environment)を主体に話を進めます。AVRのプログラム開発のためにArduino IDEを導入する事は多くのライブラリを活用し、プログラミングの時間を短縮できるメリットがあると判断しました。
 ただAVRのメモリ使用効率は下がる事が予想できますが、AVRチップのメモリ容量増大、クロックのハイスピード化などで十分フォローできるものと思われます。ちなみにいま私が使用しているチップの主体は Atmega328 ですが、メモリが32kbyteもあり、かつArduino効果で(多く使われている)@250と信じられないくらい廉価です。

 ということで、AVRプログラム開発のためのベンチを作ってみました。これまで私が適当に机の上でごちゃごちゃとやっていたものを少し整理したのが左上写真です。 120X150mm の透明アクリルの上半分にユーティリティー部分が固定設置してあり、下半分にはブレッドボードが取り替え可能なように両面テープで仮付けしてあります。
 そして接続するときに便利なように、ピン接続を紙に書いたものを貼り付けました。(右写真)

 上半分のユーティリティー部分には、202液晶キヤラクタディスプレイ(LCD)、8個の独立したLED(制限抵抗入り)、パソコンとの接続用RS232Cコネクタ(コンバータ内臓)、AVR書き込み用端子(ISP)を組み込み、これまでの経験を生かし便利に使えるように工夫しました。


 上のブレッドボードに乗っているのは AVR(Atmega328)、16MHzのクリスタル発振子、リセット用のタクトスイッチです。
これに、さらに配線を(といってもリード線をピンに差し込むだけで半田付け作業はありません)し、先回紹介したHIDaspxと呼ばれるAVRプログラマーを左上に接続したのが右写真です。そしてArduino言語(C言語に近い)で作製したスケッチ(プログラム)が左写真です。スケッチの中味は最初に動作を確認する、お定まりのLCDに "Hellow,world!"ですがここはさらに下行に "My nama is Arduino" と表示させてみました。


このベンチは下の写真のように、ブレッドボードを追加していく事によって、かなり大規模な回路も実験する事が出来るのが自慢です。ここではDDSボードをコントロールするシンセサイズド信号発生器の実験をしていますが、機会がありましたらアップします。

 ところでAdruinoIDEは本来Arduino基板に乗っているAVRをプログラムするものですので、さらに巧妙かつ興味深い部分があります(ブートローダのこと)。
 私はAVR毎に独立させて使用しますので、この機能は不要ですし、ブートローダのためにメモリ領域を割くと attiny シリーズや atmega48,8 などは自由に使用できるメモリが極めて少なくなってしまいますので、このブートローダ機能を削除しています。
 いろいろ方法はあると思いますが、私は board.txt の中に私専用のボード情報を記述し、そのなかでブートローダの記述を fuse 以外を削除し、upload.maximum_size=8192 (atmega8の例)のようにメモリサイズを目いっぱいにしています。またattiny シリーズの記述と追加ファイルもネットからいろいろ情報をいただき整備する事が出来ました。
  これらのことで私の電子工作の世界が飛躍的に開けていく事と思います。

2012年6月26日火曜日

AVR と Arduino  (1)


 しばらくおやすみしていた電子工作の話題をアップします。
 AVR、正確にはAtmel AVR(アトメル AVR)は、Atmel社が製造している、RISCベースの8ビットマイクロコントローラ(制御用IC)製品群の総称で1996年に開発されたようです





 写真に見られるようなDIP(デュアルインラインパッケージ)のものを私は取り扱いや手配線が容易という事で、好んで使いますが、最近では機器の小型化に伴ってどんどん小さくなっています。1例として小さな4角のもの(TQFP32)を掲げました。ピン間隔が狭いですが(私の視力ではこれが配線できる限界です)、いまはこれより小さいものが主流です。
一方、性能は小さなものがむしろ向上しているのは、、、、 上の写真には数種類のAVRとともにAVRをプログラムするためのATMEL純正のAVRISPmkⅡが写っています。 このプログラマーについても自作魂が頭をもたげ、HIDaspxと呼ばれるAVRを使用したプログラマーをネット(AVR/HIDaspx 千秋ゼミを参考にさせていただき作製しました。(右写真)

 この指の上に乗る小さなコンピュータにソフトウェアを書き込まねばなりません。「コンピュータ、ソフトなければただの、、、、」とはかつて言われた事ですが、このAVRのソフト作製にはWinAVRを学習してきました。WinAVRはオープンソースのC/C++コンパイラで、無償で提供されています。(2010以降更新がないですが、、、) C言語でソフトを書き、コンパイルして、できた.hex ファイルをAVRに書き込めば作動を始めます。

Arduino  最近になってこのへんてこな名前に遭遇しました。というか、名前は以前から耳にしていたのですが、真面目に正対したのは最近、、、という事です。
 Arduino(アルドゥイーノ)その語感が示すように、イタリアで2005年に始まり、学生向けのロボット製造用安価なプロトタイピング・システムを構築することを目的にスタートしたとのことです。
 これは、AVRマイコン、入出力ポートを備えた基板、C言語風のArduino言語とそれの統合開発環境IDE, Integrated Development Environment)から構成されるシステムで、組み立て済みの基板を購入することもできますが、オープンソースハードウェアのため、ハードウェア設計情報は無料で公開されており、誰でも自分の手で Arduino を組み立てることができます。 ということで、基板を購入して、手持ちのパーツを実装して早や完成したのが上写真の上です。

右はパソコンでArduinoを立ち上げたときのスタート画面です。先ずはビギナーお定まりのLEDの点滅などスケッチ(Arduinoではプログラムの事をこう呼びます、、、イタリア的?)をかいていろいろ調べていましたが、このArduino IDEは大変すばらしいものだという事に気づきました。

 つい小さな基板に目がいってしまいますが、キモは統合開発環境IDE (Integrated Development Environment))にあったのです。これを使えば比較的容易にAVRのプログラムが出来、Arduino言語C言語に準じていますが、ほどほどに冗長性を認めており、わずかな間違いで「ERROR!!」と叱られる事は少ないです。さらに調べて驚いたのはこのIDEはファイルの奥深く?かの「WinAVR」をもっていてこれをコンパイル・エンジンにしていたのです。(わたしの少ない学習経験が生きる)
 そして最もありがたいのは、Arduinoの開発目的が学生用のロボット開発だったせいか、または全ての面でイタリアのデザインティストにあふれているせいか、世界的に、多くの若い人たちに受け入れられてアプリケーション、ライブラリの類が飛躍的に増え続けている事です。このことでフリークの世界も少しは広がるでしょうし、Arduinoを通して私も世界につながる事が出来るでしょう。

 少し長くなってしまったので 次回に続く、、、、

2012年6月23日土曜日

ろうそく能にでかけました (狂言・浦島 と 能・清経 (音取))


 ここのところ、はっきりしない梅雨模様ですが、久方ぶりに観能に出かけました。
 ここの能舞台ではロウソク能は2年に1回くらいとかで、かつ、狂言の「浦島」は戦災で台本が消失していたものを明治13年上演時の記録をもとに平成11年に復曲上演された野村又三郎家秘伝の演目とか、、、、、
 また「清経」はロウソク能にくわえて、「音取(ねとり)」入りということで、いろいろ楽しみにしていました。
 よくある薪能(たきぎのう)は夜、野外で上演されますが、ロウソク能はやはり屋内が多いようです。
 開演に際し、舞台裏からの調べ静かに流れる中、舞台上に手蜀を持った裃姿の人が二人、静かに登場して、橋掛かり、舞台など12本のロウソク次々と灯を入れていきます。(図中の○印)

 客席の照明はほとんどなく、舞台上も照明は30%にまでおとされるとか、、、、幽玄の世界が垣間見え、いよいよ始まりです。

復曲狂言(和泉流浦島
  シテ 宿老浦島  野村又三郎
  アド      奥津健一郎
  アド 亀の精   松田 高義

 物語は、通常の「浦島太郎」そのままですが、登場してくるのは「宿老浦島」とあるように足腰の曲がった老人です、孫が捕まえた亀を説得して海に還してやるのですが、そのときに「腰痛を治して欲しい、、、」と頼みますが、その後あらわれた「亀の精」にもらった玉手箱のけむりで堂々たる若者に変ずる、、、、、というものです。ストーリーがわかっている分、笑いはないですが、楽しく観られました。通常のおはなしは老人になってしまい、何か裏切られた感じが否めませんが、ここでは逆の展開でめでたさを表現しています。老人から若者に早変わりするのが見どころですが、登場するときのヨボヨボの演技が結果をいっそう引き立たせます

能(喜多流)清経(音取)
  シテ 経の霊 塩津 哲生
  ツレ 清経の妻  佐々木多門
  ワキ 粟津三郎  森  常好

    藤田六郎兵衛

 この能は、いわゆる「神男女狂鬼」の分類でいけば、2番目つまり「修羅物」には違いないのですが、3番、4番の要素がシッカリはいっており異色だと思います。かつ、ツレ清経の妻がワキ粟津三郎より重きを成しており、いっそうその感が強まります。ある意味、ロウソク能にぴったりかも、、、、

当日のパンフレットよりのあらすじ 平清経(清盛の3番目の孫)は豊前(大分県)柳ケ浦で入水した。その形見の黒髪を持って粟津三郎(ワキ)が清経の妻(ツレ)を訪れる。三郎から投身の様子を聞いて涙にくれる妻の枕元に、清経の霊(シテ)が現れる。
 白分を残して自殺した清経を責める妻に対し、清経は事情を語って納得させようとする。神にも見放され、望みを失ったので、横笛を吹き、今様を謡って入水したと述べる。
 修羅道の苦しみを見せつつも、   は最期に念仏を唱えた功徳で成仏したと語って消えていく。

 今回は、笛の名手だったといわれる清経の亡霊が、笛の音にひかれて登場する特殊演出「音取(ねとり)がもちいられました。揚幕のかなた(当然見えない)から「橋がかり」を経て「舞台」まで、清経の亡霊が、あらかじめ舞台前方に移動した笛方(図参照)の吹く秘曲に導かれて、曲がとまると足の動きも止まり、曲が始まるとまた動き出す、、、、といったやりとりが、まさにこの世のものとも思えないような雰囲気をたたえながら進行する様を十分に堪能できました。

 今回の演目は大河ドラマ「平 清盛」にちなんでいましたし、私自身、かつて謡をやっていた経験も思い出され、充実した時間を持つ事が出来ました。





2012年6月18日月曜日

故郷へ桑の実摘み


 昨年に続いて、今年も故郷の中津川へ桑の実を摘みにでかけました。
 あいにくの小雨模様でしたが、初夏の緑は徐々に濃く、まさに「目に青葉、山ホトトギス、、、、」といった風情でした。


 到着後、親しい友人とおち合ってさっそく昼食です。小降りながら雨が降っており、人影もまばらでしたので、星ヶ見公園というところにある「あずまや(東屋)、、、本当は四角のものを言うのですがここは六角」を借りました。


 真ん中のテーブルに、いつもながらの手作りの料理を中心に、、、ビールまでも用意してありました。なかでも朴葉寿司はいつ食べてもおいしいもので、今回も籠に一杯山盛りに作ってきてくれました。本当に感謝!感謝!です。 ちなみに朴の木はこのあたりには沢山自生していますが、大きな葉っぱのものは少なく、探し回ったとか(私の手と比べていますが長さで約30cmとは、負けています)、、、幼少のころ朴の木で作った高下駄を履いていましたが、懐かしい思い出です。


 「クワ(桑)」といえばその葉を絹糸をつくる蚕が食するのは知られて(ある年代以上?だけかも)いますが、その実の話になると、故郷の友人たちも知っているものが少ないという事を発見しました。
 たしかにかつての桑畑は絶えず枝が切りそろえられており枝が伸びて実がなる機会が少なかったのかも知れません。私たちが訪れた桑畑は、いまや手を入れる人とてなく自然の林に戻っており、それぞれが数m近くに成長しきっておりました。
 小雨とはいいながら、雨の中を何もかも忘れて、夢中で桑の実を摘みながら遠い昔に聞いた「あかとんぼ」を想いだしていました、、、、、確か2番です、「山の畑の桑の実を小かごに摘んだはまぼろしか、、、、、」。
 右上の写真は、桑の実を摘み終わって一息、コーヒーとケーキで暫し休息時間を過しているところです。
 夕刻には少し早いですが、今夜の宿泊場所、「根ノ上高原」にある民宿「あかまんま ロッジ」を目指しました。山の夕方は早く日が落ちますし、霧も出てきたような、、、、、(左)

 「アカマンマ」とは20cmくらいの雑草で、幼いころ、その赤いゴマのような実を採って「ままごと」をした、そうアレです。

 熊本男児の御主人とハスキーボイスの雰囲気抜群の奥さんに面倒を見てもらいました。中津川からは30分くらいのもので、みなで集まって心置きなく時間が過せます。

右の写真はロッジの入り口で、翌朝の陽のもとの写真です。


  例によって夕食時のテーブルの写真です。みな、自分が古希である事を忘れ、中学生時代に戻ってわいわいがやがや楽しく過しました。


 家に帰ってもう一度桑の実摘みです、、、、じつは家の庭にも桑の木があります。(右写真)


 こちらは園芸種で、桑の実を大きく、おいしくしたものらしいマルベリー (Mulberry)のですが、昨年まで実りのころになると実が白化する病気(カビの類らしい)にかかって全滅したのが今年は何とか収穫できました。

 もともと桑は葉を「桑茶」にしたり「天ぷら」に、また根皮は日本薬局方による生薬であ利尿、血圧降下、血糖降下作用、解熱、鎮咳などの作用があるとか、、、、実にもアントシアニンをはじめとする、ポリフェノールを多く含有しているなどこのような良いものがなぜもてはやされないのかが不思議なくらいです。

 ということで、上左は桑の実から家人が作ったコンポートです。これをヨーグルトに入れたり、クリームチーズとあわせてパンに塗ったりしたらもう、、、、、、やめられません。 

2012年6月13日水曜日

我が家の春の庭花 その5(最終回)


 こいのぼりの季節も終わり、もう入梅の知らせを耳にします。
 いまさら「春の庭花」でもないですが、狭い庭でもこんなに多くの花々が季節を楽しませてくれた記録という事で最終回をまとめてみました。

 今回のトップは「スズラン」です。このあたりで見られるスズランは園芸種のドイツスズランで、花も若干大きく、芳香も少し強いようです。日本スズランとの違いは、花の中に多少色がついているくらいなもののようです。
 花言葉は、純潔純愛幸福の訪れ幸福の再来」ですが、その清楚な姿とイメージとはちがい、過日、外見が似ている山菜のギョウジャニンニクと間違えて食し、亡くなったという報道がありました。猛毒注意です。

 右の写真は「オキザリス」です。カタバミとも、クローバとも違います。庭花とは言ってもほとんど雑草ですが、世界中に800種類以上も分布しているとかで、先日も園芸店で売られていました。1cmにも満たない小さな花ですが花言葉「喜び、母親の優しさ」と、あるようにほのぼのとしたものを感じます。






 「チューリップ」です。原産地はトルコのアナトリア地方とされ、トルコの有名なトプカプ宮殿ブルーモスク等に貼られたタイルに描かれています。下の写真はトルコ旅行のお土産に買って帰ったタイルで、原種のチューリップが描かれています。
 一方、生産地ではオランダが非常に有名で、大規模なチューリップの花壇を擁するキューケンホフ公園は「一見の価値があります!」とは家人。




 チューリップの花言葉は基本的に「愛」で、「希望、前進、崇高美永遠の愛情愛の告白思いやり」などなどと尽きる事がありません。

左の写真はアリッサムです。花色は白、赤、紫、ピンクなどありますが、やはり白がお気に入りです。小さな花が、一面に絨毯のように庭を覆うのもすばらしいですが、狭い我が家では植木鉢でガマンです。

 原産地地中海沿岸別名ニワナズナスイートアリッサムは英名で、花言葉は「美しさに優る値打ち優美飛躍」です。

 次は、日本、アジア、ヨーロッパに約70種くらい自生している「オダマキ(苧環)
苧環は元来は機織りの際に糸をまいたもののことで今はほとんど見られません。ネットで検索して引用させていただきました。(下)


 「しづやしづ 賎(しづ)のおだまき 繰り返し 昔を今に なすよしもがな」これは、あの静御前が義経を慕って歌った歌で、昔の古文の授業を想いだして意味を味わってみました。
 もしかしたら大河ドラマでこのシーンが見られるかも、、、 
花言葉は「断固として勝つ、勝利、負け知らず、行いを正しく」などありましたがよくわかりません。

 「シラン(紫蘭)」です。原産地日本台湾中国で花はその名のとうり、紫色をしています。でも我が家には白もあります(上、右)。かつては紫と白が混栽されていましたが、時とともに白が急速に減少していきましたので、いまでは離れた別々の場所に別居させてあり、白花も元気をとりもどしました。

 でも花言葉は「あなたを忘れないお互い忘れないように変わらぬ愛薄れゆく愛」とか、、、、、

  つぎは「ヤグルマギク(矢車菊)」です。「ヤグルマソウ(矢車草)」はユキノシタ科の山野草でまったくの別種だとは、はじめて知りました。
 ヨーロッパ原産で、もとは麦畑などに多い雑草でしたが、園芸用に改良され桃色など多くの品種が作られたそうです。ドイツ連邦共和国、エストニア共和国、マルタ共和国などヨーロッパで多くの国が国花としています花言葉は「優雅・繊細な心・独身生活・デリカシー・幸福感」だそうですが、私たちが子供のころと違って、ダリヤなどとともに最近ではあまり見かけなくなりました。





 どのような花、たとえばこのヤナギバヒメジョオン〈柳葉姫女苑〉」といった雑草でさえ、その時々には精一杯その命を謳い上げてくれますが、それも庭に対する家人の不断の愛情と手入れがあってのことだとつくづく感じました。

 このシリーズ1から今回の5まででのほぼ2ヶ月ちょっとでとりあげた花の数は30を超えています。(幾種類かのランとバラはこの中に入っていません。)思っていたより多くの花があり驚きました。

 狭い我が家の庭にこのようなすばらしい春をもたらしてくれた家人に再度感謝です。  (このシリーズ完)

2012年6月9日土曜日

久しぶりのカメラ修理 コーワ・フレックス E


  久しぶりにカメラの修理をしました。過日、高校時代の親しい友人が私の趣味に思い当たり、「診てくれないか?」と頼まれたものです。
 託されたカメラは「コーワ フレックス EKowaflex E)です。




 コーワとは「興和」のことで、あの「ケロちゃん」で知られるコルゲンコーワのコーワです。かつてはこの会社は多くの部門を持っていましたが、いまは撤退したカメラ部門もそのひとつです。
  さてこのコーワ フレックス Eは1961年に発売された、レンズシャッターつき、レンズ固定式の一眼レフです。f=50mm、1:2のレンズがついていますが、これらのスペックから判断して、汎用・入門用であったと推察されます。
でも発売当時、(このモデルはロゴがKowaflexでなく、Kowaとなっているので1962年以降)¥25800もした高級品でした。(大卒初任給でも¥20000くらい?)彼が大切に使ったのは十分に理解できます。
 カメラを観察すると、さすがによく使い込んであり、トップカバーの凹み(上写真)、レンズのフィルターネジ部の凹み(右上写真)など落下の形跡があります。シャッターは動きが渋いですが、長期作動させないときの現象です。何せ当時一世を風靡した「SEIKOSHA-SLV」シャッターが装着されていますから大丈夫でしょう。ただこのカメラのウリである、外光式露出計は動いていません、残念!!!
 ファインダーを覗くと多量の埃でシッカリと汚れています。

 さていよいよ分解です。お決まりの手順で、1.巻き上げレバーをはずす。(左写真)時としてこのネジは逆ネジのときがあり、要注意ですが、今回は順ネジ(右締め)でした。

 2.フィルム巻き戻しノブをはずし(奥の皿の上に転がっている)、次いでトップカバーをとめているネジをはずす。(右上写真)3.ついでトップカバー横のネジも、、、(左写真)

 4.これでトップカバーが外れました。(右写真)中央のピラミッド状のものはペンタプリズムです。

 5.(左写真)手にしているのは一眼レフの象徴、ペンタプリズムです。いまどきの安い「デジ一」はこれがなく、鏡(ダハミラー)のものが多いとか、、、、 6.(右写真)右側はフォーカシングスクリーン、ずいぶん汚れています。円筒形のものは露出計用のメータ。断線していませんでした、ヤレヤレ何とか使えるようにしよう。

 左写真はここまでの分解で出てきたものをまとめて撮影したものです。このほかにも、数多くの径1mmクラスのネジがあります。シャッターは繰り返し作動で元気になりました。
 中央下の四角いものはフォーカシングスクリーン部に使われているものたちです。

(右写真)手に持っているのは劣化した「セレン光電池」で、もう今は絶滅しており入手できません。代わりに古い電卓に使われている「シリコン光電池」を試してみる事にしました。下写真は取り出したシリコン光電池で、サイズ的には何とか組み込めるようです。出力電圧は高いですが、直列に抵抗(実際には10kΩを使用)を入れることで正確さには欠けますが、使えるでしょう。

 右写真はファインダーを覗いたときに見られる像です。見にくいですが、右側に指針と指針を合わせる指標があります。シャッター速度と、絞りを互いに変えて、針が指標に合ったときが適正露出というわけです。
 とりあえず完成です。本当はまだレンズを分解して汚れなども取りたいのですが、なにせモノクロ全盛時代のファミリーカメラで、カメラそのものよりもオーナーの思い出のほうがはるかに価値があると考えました。

 したがって、このカメラはオーナーの座右にでも置いてもらって、時々空シャッターを切って音を楽しみ、カメラの質感・重量感を肌で感じてもらい、興がつのればモノクロフィルムを詰めて散策にでも出かけるような存在であって欲しいと思います。
 彼がこのカメラでファインダーを覗いたとき、きっとあの高校時代のシーンが見えるに違いありませんから、、、、、