2017年9月25日月曜日

御殿場・箱根 初秋の小旅行

 箱根への一泊小旅行をしてきました。

 家人と勇んで出かけたひさしぶりの御殿場プレミアム・アウトレットもなんら収穫は無く、なんとなく後ろ髪をひかれる思いで宿泊地である芦ノ湖の湖尻を目指して出発した直後、左写真の案内板が偶然目にとまりました。

 二十年以上も前に、御殿場インター近くの虎屋で、想像を絶する甘~い善哉を必死に食べた記憶があり、この案内板に反応したのでしょうか、、、、

 車をUターンして駐車場に入れ、よく見ると「とらや工房」とあります。あとで分かったのですが、パンフレットには、
 ・ 「和菓子屋の原点」を今の時代に再現してみたい
 ・ ここは、自然を想い、和菓子を想うひとときをお客さまと作り手がともに過ごす場所です
 ・ まんじゅう、大福、どら焼きなどをお楽しみいただきながらどうぞご自由にお寛ぎください
 、、、、とありました。


 また、右側にある「東山旧岸邸」はかつて内閣総理大臣を務めた岸信介氏が晩年の17年を過ごした屋敷で、今は御殿場市が所有し、虎屋が管理を任されており、冒頭の案内板となっているのです。

 右写真・左下の入口から林の中を散策しながら「とらや工房」へ立ち寄り、さらには「東山旧岸邸」へも足を伸ばしてみることにしました。


 左写真は通り抜けた山門を振り返って観た様子で、左側の竹林が見事で京都の趣があります。

 しばらく進むと、前方の開けたところに扇形に湾曲した「とらや工房」が見えてきました。


 ここでは前述したように、まんじゅう、大福、どら焼きなどが職人さんの手でつくられており、その厨房の様子はガラス越しに垣間見ることができるようになっています。
 そして、この出来立てのお菓子は、となりにある下町風情の販売所で小さな木の箱に入れ、ならべてありましたが、お菓子に木の香が移らないようにサワラ材が使ってあるとのことでした。



 店内は左写真のようになっており、何人かのお客さんがお菓子を味わいながら時間を楽しんでいました。
 奥にはテラスもあり、気候によってはお日様を楽しむこともできそうです。


 私たちはどら焼きとお茶(お代わりあり)のセットを注文しました。

 右写真のようにふっくらとした厚みのあるカステラの表面は程よく焼き色がついており、押された焼印の富士に「と」の字のデザインもなかなかです。その味は、、、、言うまでもありません。


 しばし休息ののち、味の余韻を楽しみながら「東山旧岸邸」に向かいました。








 途中、道祖神がお祭りしてあり、際に彼岸花が一輪ひっそりと咲いていました。




 ここ、「東山旧岸邸」は1969年の竣工ですから、ほぼ50年近く経っています。とはいうもののデザイン、機能共に今でもすばらしい建物です。

 内部は、公用、私用、管理の三つに別れ、引退後の晩年とは言いながら、大きな影響力を及ぼしていたのは容易に想像できます。


 一方、この建物が有名なのは、近代数寄屋建築で名をはせた建築家で、文化勲章受章者の吉田五十八氏の晩年の傑作であることです。

 ちなみに彼は2009年に焼失した大磯の吉田茂邸も手がけています。

 1969年といえば東名高速道路が全通した年ですし(ここ御殿場・東山はICの間近)、工業化も進んで新素材(アルミ、樹脂など)が実用化されつつあった時代で、これらの工業製品の機能性を伝統的な数寄屋建築の随所に、それもさりげなく溶け込ませた建築手法は今でも高く評価され、多くの建築家がここを訪れるそうです。


 上写真は居間で、岸信介氏は中央奥の椅子に座って庭を眺めるのがお気に入りだったそうです。

 こちらも食堂のお気に入りの席で、庭が広く見渡せるように軒を高くして、見えないように設計されています。


 数奇屋のイメージでもある、すっきり感、ほっそり感を出すための工夫がいたる所にしてありますが、この畳の縁も襖の枠と同じ幅にしてあります。

 左は和室に掛けられていた書ですが、信介とサインがしてありました。



 ということで「東山旧岸邸」を後にしましたが、私たちを孔子さま、と思しき像が見送ってくれました。




 

 ホテルは週末にもかかわらず、比較的空いていましたが、それにも増してこのホテルは静かで日本語以外を聴くことがないのが何よりです。

 残念ながらホテルからの眺望は、木々が生長したせいか、よくありませんでしたが、左写真のように芦ノ湖をわずかに垣間見ることができました。











 翌日は、当初の予報では雨とありましたが、夜半の内に通り過ぎてしまったようです、家人いわく私は照る女、、、、






 「ウゥム、、こんなに良い天気になるとは思わなかった」とは
スゥエーデンの著名な彫刻家、カール・ミレスの代表作「神の手」。
 でもこれが仏の手だったら彼は孫悟空?








 ギリシャ神話の英雄ヘラクレスが怪鳥を今まさに射止めようとする瞬間を表現した「弓を引くヘラクレス」です。

 作者のアントワーヌ・ブールデルはロダンのアトリエで助手を務めたこともありますが、ロダンのロマンティシズムから徐々に離れ、ギリシャ彫刻やロマネスク彫刻のような堅牢さを自らの作品の中に吸収しようと努めたとされます。

 右写真は後方からの構図を試みたものです。


  野外美術館である「彫刻の森美術館」を遠くまで見渡せる場所で300度(写真は11枚)の写真を合成したパノラマ写真です、ブログ上では小さくなってしまいましたが、拡大してみてください。

 右下写真のポイントもいくつかの作品を同時に観ることができます。

・中央には オシップ・ザッキンの「住まい」
・左手には 伊藤隆道の「16本の回転する曲がった棒」
・右手には ナウム・ガボの「球型のテーマ」
・奥には  流 政之の「風の刻印」
がそれぞれ観られます。

 

 左写真はガブリエル・ロアールの「幸せを呼ぶシンフォニー彫刻」です。

 高さ18メートル、内径8メートルの塔で、厚さ23センチメートルの分厚いガラスを槌で手割にした破片で作られたステン・ドグラスが全面にはめ込まれ、外からの光を受けて幻想的な美しい世界を創造しています。

 中には螺旋階段があって塔頂まで登ることが出来ますので、歳甲斐も無く二人して一気に登り切りましたが、その報いは直ちに、、、、

 右写真はその内部で、ステンド・グラスが朝日できれいでした。

 そしてお目当てのピカソ館へ足を伸ばし、お気に入りの闘牛子供のそれぞれをテーマとしてあるゾーンを中心に鑑賞しました。

 闘牛についてはピカソは「一つのものを仕上げるとは、それを終えること、それを破壊すること、それからその魂を奪い去ること、闘牛場の牛みたいにそれに『とどめ』を刺すということだ。」と述べていました。

 また子供については「妙な話だが、僕は子供らしい絵を描いたことがないんだよ、一度もね。ほんの小さい時からそうだった。」とありました。

 さらには館内のあちらこちらにあったピカソの日常生活の一面を記録した写真の存在も、彼をわずかながらではありますが、理解するための助けになりました。








 野外展示場を一回りしてくると最後に出会うのは、フランソワ・ザビエとクロード・ラランヌというフランス人夫妻の作品「嘆きの天使」です。
 「水面に映った自分自身の姿に恋して、水仙の花に生まれ変わったという、ギリシャ神話の青年ナルシスのように、この天使も陶酔した表情を水面に映し出します」と作者は言っていますが、緑の髪と絶えずあふれ出る涙は印象に残ります。

 ということで、あとはレストラン(彫刻の森ダイニング)に入ってのランチです。メニューは「彫刻の森クラブサンド」と「シーフード・サラダ」を選びました。注文の際、量が多いですがいいですか?と念を押されましたがしっかりと完食!!

 今回の旅行は二人の健康な足と胃袋そして良い天気に感謝、感謝、でした。

2017年9月20日水曜日

藍は赤かった

 左写真を観て直ちにこの花の名前を言い当てた人はさすが、、、、です。

 実は私もこの可憐な花に出会うまでは知りませんでしたが、過日友人宅にお邪魔したときアイ(藍)だと教えられて驚いたものでした。そして請うて、いま我家の庭に花開いたのです。

 藍は藍染の藍、宮里藍、はたまた「青は藍より出でて藍より青し」の藍なのです。日常の言葉の中では当たり前のように使っていますが、その花の色までは知りませんでした。
 おっと藍綬褒章にも使われていますが、こちらはアイではなくてランです。




 アイ( 藍、学名:Persicaria tinctoria)は、タデ科イヌタデ属の一年生植物です。

 紀元前より世界各地で青色の染料として重用されていましたが、化学合成したインディゴ染料が発明されて以降は合成インディゴにとってかわられてしまいました。

 原産地はインディゴの名が示すようにインドだとされ、白い花もあるようです。ちなみに花言葉は「美しい装い」とありました。



 藍染は奈良時代から続く歴史があり、現在でも藍による染色を愛好する人々もおり、海外では藍色を指して" JAPAN BLUE "または" HIROSHIGE BLUE "と呼ばれることもあるそうです。
 そうそう日本のスポーツ・チームのユニフォームも" JAPAN BLUE "藍色が多いですね。

 上写真は合成インディゴとその化学式です。

 染色には「生葉染め」、「乾燥葉染め」、「すくも染め」がありますが、なかでも「すくも染め」は乾燥したアイの葉を室のなかで数ヶ月かけて醗酵させて「すくも」(右写真)を造り、更にそれを搗き固めて藍玉を作り、これを利用する方法です。

 生産に高度な技術と手間を必要とするため、現在では徳島以外で日本産の「すくも」を見ることはほぼないようで、木綿に色濃く染めるにはこの方法に限るようです。

 右写真はネットで見つけた伝統的な藍染めですが、何か落ち着いた懐かしさを感じるのは私だけでしょうか。

 もともと藍は染色のみならず薬用としても用いられました。


 



 生藍の葉、乾燥葉、種子などをそのままに、または煎じて用いれば消炎、解毒、止血、虫さされ、痔、扁桃腺炎、咽頭炎などに効果があるとして巷で広く愛用されたという、遠い遠い代を重ねた記憶が、どこかに残っているのでしょう、、、、

2017年9月12日火曜日

簡単にできるEPROMイレーサの製作

 前回のBLOG「私のジャンク箱から(3)EPROM をもう一度使ってみるで発掘したEPROMを眺めていたら今時流行の Retro Computer を作ってみたくなりました。
 もちろん、最も簡単なZ80+RAM+EPROMおよび若干の周辺チップで構成し、できればCP/Mでも走らせてみたいものです。

 となればEPROM(上)にファイルが読み書きできなければなりません。(Retroにこだわれば)
 いやそれ以前に一旦書き込んだデータを消去できる必要があります。

 このための消去装置、EPROMイレーサは今では需要も少なくなったためかあまり目にしなくなりましたし、そこそこ高価です。となればいつものように、、、、DIY、自作となります。

 製作にとりかかる前にEPROMについて少し学びました。

 EPROM (Erasable Programmable Read Only Memory)は、半導体メモリの一種で、利用者による書き込み・消去が可能なROM( Read Only Memory で、電源を切っても記憶内容が保持される(不揮発性メモリ)と言う特徴があります。

 右は先回のBLOGで紹介したEPROM窓部の写真ですが、さらに拡大すると下写真のようにシリコンのウエハー部分がよくわかります。(写真は別の EPROM )

 きれいな虹色が見えているのはウエハーの表面が光の回折が起こるほど微細に加工されているということです。

 その微細さは右上写真の27512を例にとると 64X1000X8 で50万個以上の記憶素子があるということです。
 EPROMは使用に際して予めデータをすべて消去しておく必要があります。

 窓を通してウエハーに紫外線を当てることによって下図の Floating Gate に蓄積された(書込み済みの素子のみ)電荷を放出させますが、素子の一つ一つの選択はできないので、すべての素子について、電荷のあるなしにかかわらず紫外線を当て、このチップ内の素子すべてを電荷なし、すなわち消去された状態にするわけです。

 この状態は Drain から Source に電流が流れませんので素子はコンピュータでいうところの1を表現しており、消去後 EPROM はすべての素子が1の状態ですので、バイト単位で見るとすべて0XFFとなっているのです。

 データの書込みは Control Gate に比較的高い電圧( EPROM の電源電圧5Vに比して)をかけ、 Floating Gate に電荷を蓄積することでおこなわれます。この書込み電圧は EPROM が新しくなるにつれ、+25Vから+12Vへと変わってきていますが、このことは書き換え回数が当初20回程度とされていたものの長期寿命化につながっているものと思います。


 少し前置きが長くなってしまいましたが、いよいよEPROMイレーサの製作にかかりましょう。

 とは言っても EPROM チップに紫外線をあてるだけの話ですが、身近にある紫外線源は殺菌灯と紫外線LEDくらいなものです。

 後者はまだまだ要求に足る十分な紫外線量が得られないようで、殺菌灯を使用することになります。



 さいわい殺菌灯はまだネットで安価に入手可能でした。使い方は通常の蛍光灯と同じですが、できるだけ小さなものにしたいので、4Wの「東芝 殺菌ランプ GL4」(右写真上)を選択しました。
 他の部品としては右写真・下左の安定器が必要ですが、定格の一番小さなものを使います。また右写真・下右のグロー管は10W用を使いました。
 これらには適合するソケット類があり、当初私は配線を直接半田付けするつもりでしたが、ジャンクボックスの中に以前取り外した門灯用のソケット類がありましたので、廃物利用で済ませました。 

 主要部品はしっかりと固定するために、これもありあわせのアルミ板を加工して取り付けましたが収納するケースで、はたと行き詰まり、結局は厚手のボール紙製のゴルフボール・ケースを利用しましたが、使用環境がそれほどハードではないので十分使用に耐えました。

 下写真は部品を並べてに組みあがりの様子の検討中です。


 この中で特記すべきはリミットスイッチです。この目的は、紫外線は直接目視すると目に有害ですので、上蓋をとったときには殺菌灯を強制的に消灯するためのものです。






 左写真が最終的に組みあがった完成写真です。

 写真には写っていませんが、電源コードには途中にスイッチを入れてあります。
 本来なら回路中にタイマーを入れて消去時間を一定にすべきなのでしょうが、大袈裟になりますし、消去時間はそれほど厳密ではなく、永くとも10分程度なのでキッチンタイマーで間に合わせました。

 EPROMが殺菌灯の下に置かれているのがわかりますが、後はこのまま蓋をして(もちろんゴルフボールは関係ありません)スイッチを入れ、10分経ったら取り出すだけです。(5分でも消去できていました)

 さてこれで次は「EPROMプログラマーの製作」にかかります。

2017年9月6日水曜日

晩夏の庭に咲いたユリ

 あの暑い暑い夏もようやくにして秋の季節に変わりはじめました。

 このような時期に我家の庭で花開いたのが左写真のユリです。とくだん植えつけたわけでもなく、種子がどこからか飛来したものなのでしょう。
 そういえば道路の法面や空き地などでもよく見られます。

 ユリといえば笹ユリ、山百合、鉄砲ユリ、カサブランカなどお気に入りなのですが、、、、
 この花は本当にユリなのか、以前からいぶかしく思っていましたのでこの機会に調べてみました。


 「維管束植物 単子葉植物 ユリ科」和名:タカサゴユリ, ホソバテッポウユリ, タイワンユリ とあり、やはりユリでした。でもなんとなく違和感があったのはこのユリが侵入生物であったからです。原産地は学名 Lilium formosanum が示すように台湾で、大正時代に観賞用として持ち込まれたもの、、、、とありました。

 右写真は庭で咲いている様子です。
 今年は2本育ちましたが、そのうちの1本は写真の左側に茎だけ残っているのが見えます。
 こちらには沢山の花がついていたので、雨で濡れ、その重さに耐えかねていたのを家人が切り取って花瓶に移したのです。





 そんなとき家人から声がかかりました「花がいくつ付いていたかわかる?」「たくさんあったから15くらいかな、、、、」

 正解は左写真です。
 なんと28個ありました!!!

 このユリは風媒花で、自家受粉できる生命力旺盛な種なので、たまたま地味の肥沃なこの庭で勇んで成長したのでしょう。



 かつて観賞用として持ち込まれただけあって、その白い花は決して目障りなものではありませんが、セイタカアワダチソウやナガミヒナゲシなどと同じものだと言うことを少しは念頭においておく必要があると思います。

 夕刻、柔らかな甘い芳香が漂っているのに気が付きました。
 そうです、このタカサゴユリが放つ香りだったのです、これまでこの弱い香りに屋外では気づくことが無かったのでしたが、このユリを少し見直しました。

2017年9月2日土曜日

私のジャンク箱から(3) EPROM をもう一度使ってみる

 先日例によってジャンク・ボックスをひっくり返していたら40年ほど前の8080、Z80、メモリなどマイコン関係のチップがたくさんでてきました。
 勿論周辺チップも多くありましたが今回はその中からEPROMにスポットを当ててみたいと思います。

 EPROMとは Erasable Programmable Read Only Memory のことで、電源を切っても記録内容が消えない不揮発メモリの一種で、繰り返し内容の書き換えができるものをいいます。ただ繰り返し使うにはチップ上の石英ガラス窓を通して紫外線を照射し、一旦内容をすべて消去する必要があります(部分的な消去はできません)

 左上にジャンク・ボックスからの各種EPROMの写真を掲げます。

 上写真中、左上から右に大別して 2708,2716,2732,2764,27128,27256,27512 の7種類があります。

 右写真にそれらを比較しやすいように並べて見ました。写真中左下に TMM121 とあるのは1975年ごろ発売された東芝の12ビットマイコンTLCS-12Aシリーズで使われたEPROMでこれらチップの草分けとも言える存在ですが、記憶容量が512x4ビットと言うのはわかっているのですが、その他の仕様は資料も無く不明です。

 またその上は1978年(昭和53年)に(株)タイトーが発売し世界中で大ヒットしたアーケードゲーム「スペースインベーダー」(右)(Space Invaders)に大量に採用されたとされるのが2708です。(左)
 チップ上の石英ガラスを通して内部構造がよくわかります。


 このようなEPROMは中にあるシリコン・ウエハの構造や加工精度が向上するにつれて記憶容量が増し、27512に至っては TMM121 の250倍の 64k x 8 ビットの容量を持っており、現在では 128k x 8 の271024も存在します。
 右写真はチップの中のシリコン・ウエハを等倍比較したもので、27512TMM121より面積が小さいにもかかわらず記憶容量が大きいのはまさに目の当たりにした技術の進歩です。

 


仕様が不明な TMM121 を別にして、手持ちのEPROMをざっと整理してみたのが左の表です。




 EPROM型番はそのまま記憶容量をあらわしています。
 また大きく異なるのは2764以降ではパッケージが24ピンから28ピンに変わることですが、幸い右図に見られるように2732の1~12ピンと13~24ピンは27512の3~14ピンと15~26ピンに対応しています。

 次いで必要電源を見てみると2708のみが+5v、+12v、-5v、+25vの4種類必要です。
 これは当時のCPUである8080+5v、+12v、-5vを使っていたので問題はすくなかったのですが、今となっては少し煩雑です。

 したがって今後使っていくとすると2725627512あたりが良いと思われます。言い忘れましたが大きな問題にアクセスタイムがあり、最近のマイコンCPU(Z80系)では100nSを要求されますので、選択肢は27512(27C512)に絞られると言うのが結論です。

 ただここでいろいろ取り上げたのは手持ちのEPROMに読み書きをすべくEPROMプログラマを製作しようという意図があるからで、これについては次回以降とします。

 昔を思い出してZ80マイコンシステムを作ってみたくなりました!!!!