2013年3月31日日曜日

早春の京都(その3)



 春はあけぼの。 やうやう白くなりゆく山際ぎは、、、、と「枕草子」第一段にある光景がまさにこれです。季節は厳密には違いこそすれ、東山から陽が昇る前の光景です。

 昨日の強行軍で少々バテ気味ですが家人はどこ吹く風、、、、というのも今日はホテルをチェックアウト後、お気に入りの大原地区へでかけ、そこで一日散策しようという計画なのです。
 かつては大原へ都から出かけるのもたいへんだったでしょうが、今では鯖街道(国道367号線)を30分ほど北上すれば到着します。




 到着後駐車場を探しましたが、幸いシーズンオフなのでどこもガラガラでしたが、駐車料金が安いところは「3時間以内」などと条件がついているので要注意です。


 右地図で中央下の駐車場から出発し、ピンクの線を右上に進み、三千院に、そして周辺のお寺を散策・拝観してから街道まで左方向に下り、街道を横切った後に左上方向の寂光院へ登って行きます。そして帰りは周遊路になるように駐車場を目指します。















 これは三千院から寂光院に向かう道端でみつけた歌碑です。 ~ 京都 大原 三千院 恋に疲れた 女がひとり ~ かつて 永六輔・いずみたく  デュークエイセス とタイアップして創ったご当地ソングのはしりである「にほんのうた(53曲)」の京都編です。

 まだ朝が早いので門前にある店は開店前でしたが、大原といえば柴漬け、、、、帰りがけに求めました。




 三千院門跡と寺格を表示しています。




 ありがたいことに、ここの開寺は8:30からということで無事に入れました。門は見上げるように石段の上にあり、周りの石垣と合わせてみると、まるでお城のようないかめしさが感ぜられます。


 もともと三千院は8世紀、最澄の時代に比叡山に起源をもち1871年(明治4年)にここ大原の地に移されたとか。

 それ以前は「梶井門跡」「梶井御所」「梶井宮」などと称されていたということで、右上写真の石柱には「梶井 三千院門跡」とあります。

 宸殿から三千院の古式庭園、有清園から往生極楽院を垣間見たところです。ちなみに三千院にはもうひとつの古式庭園、聚碧園(しゅうへきえんがあります。


 宸殿は門跡寺院特有のもので歴代門主の御尊牌を祀るところで、御所と同じように宸殿前に右近の橘、左近の桜を配するそうです。

 境内にある往生極楽院平安時代末期の12世紀からこの大原の地にあった阿弥陀堂であり、1871年に三千院の本坊がこの地に移転してきたとき、その境内に取り込まれたもので三千院と往生極楽院は元来は別々の寺院でした
 
  往生極楽院を過ぎてしばらく行くと左手の緑美しい苔のなかに何体かの「わらべ地蔵」がおわします。その起源を調べたのですが、仔細は不明でした。

 ただ写真を撮るものにとっては、よく知られており、このように朝陽と木陰が交錯した光景に出会ったのは本当にラッキーでした。早起きは、、、、









 左写真は、延命水の筧(かけい)越しに往生極楽院を見たものです。奇麗な青空が泉水に映っています。


 境内のところどころに植えてある北山杉ですが、ものの見事に空に向かって真っ直ぐでうつくしいです。










 境内併設の宝物殿に行きました。最新の調査で復元された先の往生極楽院の天井画がありました。撮影は出来ませんでしたのでポスターから、、、、

 本来、850年前こんなに鮮やかな天上の青として描かれていたそうです。(現在は護摩為、真っ黒に煤けて、、、、)



 三千院を出て、少し北に向かうと左側に実光院があり、(巻頭の地図参照)ここに茶席があるとのことで立ち寄ってみました。


 お寺は近くにある勝林院の分院ということで、門を入ると珍しく階段を下ったところにある、瀟洒な建物でした。

 部屋の天井近くには、36歌仙や天女のうつくしい絵が掲げられており、庭を眺めながらお茶を喫するやすらぎの時間は格別でした。

 ふと部屋の隅を見ると石を並べた木琴いや石琴のようなものが置いてあります。
 説明書きをよむと明治時代声明(しょうみょう)の大家である住職さん(深達僧正)が音律を調べるために愛用したサヌカイといわれる美しい音が出る石盤だそうです


  興味を持って鳴らしてみましたが、ほぼ半音階で、深い澄んだ音がしました。それぞれの石には漢字で音階?が記してありました。








 庭に出て、このお寺での有名な、「不断桜」を鑑賞しました。この櫻は秋から次の年の春まで咲き続ける珍しい櫻だそうです。




 さらに庭内を散策すると、足元にも可愛い花がありました。「ニリンソウ」と「福寿草」です。



 実光院をでて、緩やかな坂を下りながら振り返ったところです。

 右側が実光院、左手奥が三千院です。これからこの先正面に勝林院の大きな伽藍を見ながら左折して宝泉院に向かいます。


  宝泉院の門をくぐると正面にきれいに刈り込まれた大きな五葉松がシンボリックに目に入ってきました。右手に廻って寺院の入り口に向かいます。



 この寺も勝林院の僧坊の一つとして建立されたものであり、大きな五葉松は樹齢700年にもなり、京都市指定の天然記念物だそうです。

 庭園は(盤桓園 立ち去りがたいという意味)といい寺院の庭園には珍しく、いろいろな形の造形物が所狭しと並んでいました。

 ついで、ここでもお茶を喫する機会がありました。(拝観券と呈茶券がセットになっていました。)

 お茶はともかく、お茶菓子「ひととき」がとりわけおいしく、まさに至福の「ひととき」を味わいました。聴くところによると宝泉院が特別にあつらえているとか、、、、


 そして喫茶後、床の間の前にある脇息つきの分厚い朱の座布団に座って庭を見るという趣向に乗ってみました。




客殿の柱と柱を額縁に見たてて「額縁庭園」とも呼ばれているそうですが、さすが樹齢700年の五葉松の幹は圧倒的な存在感を感じさせます。


 さて、左京道、右寂光院の道標をみて、いよいよ今回最後の目的地「寂光院」にむかいます。

 もともと寂光院や三千院のある大原の里は、念仏行者の修行の地であり、貴人の隠棲の地であったわけですが、壇ノ浦で平家一族が滅亡した後も生き残った平清盛の娘建礼門院徳子高倉天皇の中宮で、安徳天皇の生母は信西入道の娘侍女の阿波内侍とともに尼となって寂光院で余生をおくりました。



 平家物語の大原御幸で、「甍 やぶれては霧不断の香をたき、枢おちては月常住の燈をかがやくとも、、、、」 とあるように後白河法皇もさみしいところだと述懐されていますが、800年後の今日でも寂光院への道は三千院へのそれに比較して人通りも少なく、廃屋化した店々も多く裏悲しいものがあります。

 これは平成12年(2000年)に起きた本堂の火災焼損(2005年再建)によることのみではないように思います。
 途中の道端に咲いていたマンサクの黄色い花も侘しげです。

 ようやく寂光院の入り口に到着しましたが、小さな川に沿ったこの谷あいの場所に山奥から吹き降ろしてくる風のなんと冷たく厳しいこと、、、、思わず縮み上ってしまいました。


 門をくぐると正面に再建なった寂光院本堂がほっそりとつつましやかにみえます。





 本堂前の「汀の池」のほとりにこれも平家物語に登場した、樹齢千年といわれる名木、高さ約18mの御神木「千年の姫小松」五葉松が、五年前の本堂火災焼損の影響の影響で枯死したままになっていますが、この御神木は午前中に観た宝泉院の五葉松(樹齢700年)をはるかにしのぐものであった事が想像されま



 ということで後は帰路につきました。
 春はまだ寒く、花にははやかったですが、幸い天候と体力に恵まれて無事予定をこなす事が出来ました。久しぶりの京都ですが、また来たいものです。





2013年3月20日水曜日

早春の京都 (その2)


 前回は左の地図の下のほうに黒丸で示した、祇園の「貴久政」で昼食を摂ったところまででした。

 今回はその続きです。

 おなかも、気分もほどほどに満足で、「貴久政」の板さんに戸口まで見送っていただき、元気いっぱいで午後のスケジュールに出発です。

 これから四条川原町に出て、バスで新島邸、さらにこの春の特別公開のお寺を3ヶ所拝観し、最後に錦市場を覗く、、、、といった行程です。(地図上で、ブルーの線濃い線は上り、薄い線は下り)はバス、ピンクの線は徒歩)

 京都の市バスは市内はすべて220円ですが、一日乗車券を500円で購入でき、これをうまく使うと散策がずいぶん楽になります。地図はわかりやすいですが、1ブロックは結構な距離です。
 便数も多く15分も待てば次がきます。

 四条川原町に向かって西にすすんでいます。ここは京都でも指折りの繁華街で先方左に丸井、高島屋のデパートが見えてきました。

 高瀬川も渡ります。高瀬川(たかせがわ)は、江戸時代初期開削された京都と伏見を結ぶ運河で

 この場所に来るたびに、不思議な気持ちが強くなりますがなぜなのでしょうか、、、、
 祇園という歓楽街と「知足」という言葉を教わった森鴎外の「高瀬舟」のイメージが重なるのでしょうか、、、


 バス停を探し当て(これも結構大変)丸太町まで上がります。
 新島旧邸は京都御苑の右下(東南角)の同志社新島会館(右写真)の中の別館というのがそれにあたります。

 ここは今、NHK大河ドラマ「八重の櫻」で注目を浴びており、見学の制限があります(時間と人数)が、家人の活躍であらかじめ手続きは終わっています。

 まず、同志社新島会館で手続きをし、ついで若干の展示を見て基礎知識を得るようになっていますが、入り口には「同志社キャラクターの八重さん」がお出迎えです。

 ドラマでもお馴染みのように、会津で生まれ育った八重さんは戊辰戦争の最終局面である鶴ヶ城籠城戦をまえに川崎尚之助と離婚(おそらく残された彼女が賊軍の家族として迫害されないように?)戦後しばらくしてから京都の顧問になっていた兄の山本覚馬を頼って身を寄せ、同志社英学校(後の同志社大学)を興した新島襄と再婚しました。

 新島旧邸は新島襄と八重さんとの私邸です。結婚生活は14年間と短期でありましたが、新島襄は教育者である前に宗教家であったため、布教活動などで家を空けることが多く、実質はさらに短かったようです。


 女子高生たちが縁側に座って梅をみながら談笑しています。


 右写真は旧邸内の廊下です。


 北側の庭には紅梅も咲いていました。

  左下写真は台所、ですが、ハイカラな?キッチンがあり、それにも増して驚いたのは部屋の中に釣瓶井戸があったことです。
 京都の冬は寒いですから、、、、















 右上写真はダイニングです。木製の家具が美しいです。
 左下の写真は新島襄の執務机です。本がたくさん入った本棚も見えます。


 また右は居間?にあった化石などの標本を入れた戸棚です。彼のコレクションででもあったのでしょうか、、、、
 また右下は寝室で使われたベッドの写真です。





 どれも明治時代の生活品なのですが、今見ても決して古いとは感じられません。二人とも留学経験があるとはいっても、やはりセンスなのでしょうか、、、
 新島襄の言葉がありました。「彼女は見た目は決して美しくはありません。ただ、生き方がハンサムなのです。

 でもテレビドラマの八重さんは美しい、、、、

 旧邸を見学した後に再度、同志社新島会館に戻りました。行きがけにホテルオークラの喫茶コーナー(出店?)があったのを横目で見ておいたのです。




 ひと休みして、次に出かけたのは京都御苑の左上(北西角)にある上立売り町地域です。ここにはこの時期の特別拝観をしているお寺があり、3ケ所をハシゴしてみました。



 最初に訪れたのは、通称人形寺で知られる宝鏡寺です。
 右写真は境内にある人形塚です。

 この午後訪れたのは、宝鏡寺(百々御所)三時知恩寺(入江御所)そして大聖寺(御寺御所)の3ケ所ですが どれも皇女や貴族の息女が住職となる寺院で、正式には比丘尼御所と称されるところでした。
 ちなみに「尼門跡」と呼ばれるようになったのは明治以降だそうです。


 左は三時知恩寺、右は大聖寺の門です。

 尼門跡ということなのかどうかわかりませんが、これらの寺は中に入っての撮影が全て禁止されていましたので入り口の看板のみで、、、、


 時刻もそろそろ午後4時ということで、今日最後の目的地を目指します。バスで四条川原町へ下ります。夕方の雑踏が始まっている中をまさに人ごみをかき分けて錦市場へとやってきました。
 錦市場(にしき いちば)は、京都のほぼ中央に位置する錦小路通にある商店街で、東西390メートルあります。

 組合に所属する店は約130軒あり、魚・京野菜などの生鮮食材や、乾物・漬物・おばんざい(京言葉で日常の惣菜)などの加工食品を商う老舗・専門店が集まる市場。
 京独特の食材は、ほぼここで揃うとか、、、、


石畳の狭い道、大勢の人ごみ、3色に彩られたアーケード、前方がかすんで見えないほどに長いまさに錦市場ですが他の地域に比べて何か上品な、デパ地下に似たクールさが気になったのは私だけでしょうか、、、、

 でも京ならではのものを何点か購って再びバスでホテルに向かいました。

 あ~おつかれさまでした!!!!