2013年7月27日土曜日

遥か南米へ4万キロの旅 その9 (インカの文化を訪ねてウルバンバへ)

 南米の旅も残り少なくなってきました。

 今回はマチュピチュ村を出発して、再度インカ・トレインに乗り、オリャンタイタンボまで行きます。
 そこで下車して、オリャンタイタンボの町をを観光し、午後はウルバンバを経由して、マラス塩田とモライ遺跡を訪れ、今夜はウルバンバのホテルで最後の夜を過します。

 右図で示すように、オリャンタイタンボとウルバンバは約20kmはなれていますが、このあたりにも多くの遺跡が散在するようです。







 朝のホテルまえの通りはまだ少しくらい感じがしますが、山々は朝日を浴びて光り輝いています。

 町の店々も開店の準備中です。

 村の中央を流れる橋(アグアス・カリエンテス川)を渡って駅に向かいます。徒歩でほんの5分程度です。


 谷あいから見る空は今日も高く、青くまぶしく見えています。


 駅に到着しました。







 写真の中央に、オリエント急行をイメージした?ブルーの列車が見えています。
 この駅前はきれいな庭が造ってあり、花々が色とりどりに咲いています。

 列車は天井に窓を配した、いわゆるパノラマカーなのですが、日がさし始めると、これがなんとも暑くて、、、、

 帰りは進行方向の左側の席で、こちらは山側で往路の川側に比べると退屈な景色が多いです。








 出発して程なく、右手に遺跡が見えてきました。すぐ左手には段々畑も見えます。

 往路に、気がついていたので注意して撮影しました。

 たしかに、このあたりには多くの遺跡があり、それらを巡るのが、インカ道をトレッキングする人たちの楽しみになっているという事を聴いた記憶があります。
 たまたま窓の外を見ていたら、ロバが道端で草を食んでいる側をトレッキングの人たちがどんどん通り過ぎていくのを見かけました。皆元気で楽しそうです。

 左手の小さな村のむこうにベロニカ山が見えてきました。そろそろ気温が上がってきてお山が霞んで見えています。
 手前の小さな山は見えるところ全て、段々畑になっています。

 オリャンタイタンボ駅に到着したときに見かけたペルーの女性です。といってもリマではめったに見られませんでしたが、、、、
 伝統的な?毛の帽子、赤いスカートそして少し丈が短めの上着、、、、とお定まりのスタイルです。髪もおさげです。また荷物を包んだ毛布?もきれいです。 
 まぶしいほどに赤いブーゲンビリアをながめていたら、あ!ハチドリです。急ぎシャッターを切りましたがあっという間に飛び去りました。少しブレていますが、写真中央に、むこう向きで映っています。

 ここオリャンタイタンボも聖なる谷と呼ばれる、遺跡の町です。左手を見上げると、お約束の住居と段々畑の組み合わせです。

 そして、右写真は現在の家々の並びです。石積み、石を敷き詰めた道、まさに遺跡そのもの、、、、

というか、要はここはインカなのです。遺跡をスポットで捉えていたのは間違いでした、この地域そのものが歴史なんです。

 石で造られた町並みをあれこれ思いながら歩いていくと、時折左写真のような先端に赤いしるしをつけた竿が出してあるのを目にしました。
 これは、「仕込んであったお酒が出来上がりましたから、皆さんお越しください」という初出しのしるしなんだそうです。ここで言うお酒とは、とうもろこしから作った「チチャ」という名前のお酒です。


 これはもともとトウモロコシを噛んで唾液の酵素で発酵させる作り方だそうですが(今は違うらしい)、

「一杯いかが?」と勧められてもしり込みしたくなるような、、、、

 右手の山を見上げると、山の中腹に、あそこにも、ここにも遺跡があります。説明によるとこちらは穀物の倉庫群だったとか。


 次いで訪れたのは、インカの伝統を引き継ぐ民家です。

 比較的ちいさな門を入ると中はいくつかの家々が取り囲む形の中庭になっており、色鮮やかな民芸品が陳列してありました。もちろん売り物です。
 そのうちの一軒に入りました。


 なかは土間のままで、天井からはトウモロコシや魚が吊るしてあり、足元にはモルモットが十数匹いました。モルモットはこちらでは「クイ」と言われていますがもちろんタンパク源です。

 また一隅にはご先祖様のサレコウベが3体ほどお祭りしてありましたが、撮影は遠慮しました。


 この家の娘さんが広げて見せてくれているのはアルパカの絨毯です。手触りも良く、刺繍された模様もインカ伝統のものです。

 お値段も手ごろでそれほどかさばらないので、かなり物欲が頭をもたげましたが、「断・遮・離」のお念仏でご退散、、、、


 オリャンタイタンボをバスであとにし、街道からほんの少し入ったところにあるリゾート色の強いレストランでランチタイムです。

 ここもお定まりのバイキングですが、かなり旅慣れ、料理もおいしく、ゆったりとくつろげました。茅葺き屋根の小屋でのランチもまた格別です。

 コカの葉がおいてあったので、コカ茶なるものをいれてみました。いろいろいわれているので、多少おっかなびっくりでしたが、なんら変化はなく、「???」

 庭には、リャマ、アルパカ、ビクーニャが放し飼いにされていました。人間にはいたって無関心で、あの愛嬌のある顔で「しらんふり、、、、」


 レストランの入り口では民族衣装(普段着?)を着た娘さんが、民芸品の露店を開いていました。みなさん、帰国が近いとあっておみやげ物選びに余念がありません。

 しばし休息の後、午後のスケジュールに入ります。次は「マラスの塩田」です。
 今夜宿泊予定の、ウルバンバを一旦通り過ぎて目的地に向かいました。わき道に入ってしばらくすると、車窓になにやら変わった景色が見えてきました。

 かなり深い谷に、その部分だけ真っ白にペンキででも塗ったような広い地域が見えます。
 谷の斜面を縫うようにして徐々に降りてゆくとまるで棚田のような景色が見えてきました。

 源泉というか、源塩水は左写真の左下に見られる、ちいさな小川でした。ここから湧き出した塩水を水路で細かく分配して、約3800の塩田に供給しているのです。

 またこれらの塩田はそれぞれ個人所有になっているとか、、、、



 この塩田はインカ帝国の時代よりもっと古くからあったとはいうものの、海から遠く離れたこの地で塩が生産できると言う事はインカ帝国にとって非常に重要であった事でしょう。

 次に私たちが訪れたのは「モライ遺跡です。

 左写真に見られるようなミステリーサークル?がこの地に三箇所ありました。この写真のものが一番大きく、また修復もすすんでいるようでした。
 近くには日本では見られないような花が咲いていました。

 左写真はここにある三つのサークルのうちいちばん手が入っていないものです。修復されたものよりは風情があるような、、、、
 遠くに雪をいただいた山が見えていました。
 これらのサークルはいったい何に使ったのかはよくわかっていないようですが、基本的には農業施設で、一説には少ない山の水を有効利用するためだとされています。


 近くに観光客目当てに、現地の人が手作りの工芸品を打っているマーケットがありました。

 そろそろ陽も傾きかけてきましたので店をたたむ準備をしていました。例によって皆さんお土産の買い足しを、、、

 ホテルに着いたのはまだ5時すぎでしたが、冬に近いこちらではもう暗くなりかけていました。左写真はホテルの壁一面に描かれた壁画です。なんと今日私たちが見かけたオリャンタイタンボ遺跡をほぼ同じアングルで描いたものです、 遡って写真と比べてみてください。

 このあとディナーとなりましたが、そのあとで戸外へ出て天体観測を、ということで衆議一決しました。幸いホテルも照明を落してくれたので、最後の夜にふさわしく、うつくしい南十字星を頭上に堪能する事が出来ました。

2013年7月24日水曜日

遥か南米へ4万キロの旅 その8 (秘境 インカ橋)

 午前中、マチュピチュ遺跡を一巡し、一旦ゲートを出て昼食です。
 午後は自由時間になっていて、
  1.もう一度遺跡をじっくりと見る
  2.「太陽の門」へのトレッキング
  3.「インカ橋」へのミニトレッキング
  4.マチュピチュ村まで降りる
と、いくつかの選択肢がありますが、何れにしても今夜はこちらでもう一泊するので、気分的にはゆとりがあります。

 いろいろ考えて、3.の「インカ橋」へのミニトレッキングを選択しました。

 








 右上写真は左図の左下にある「マチュピチュ・サンクチャリ・ロッジ」です。聞くところによるとここはかなり人気のホテルで、宿泊はママならないとか、、、、で、私たちは昼食のみでガマンです。

 例によってバイキングでしたが、種類も質も満足できるものでした。

 食堂の壁に、1911年にマチュピチュ遺跡を発見したとされる米人 ハイラム・ビンガム3世 Hiram Bingham III )、当時の写真が飾ってありました。(左)
 今でこそきれいに整備・一部復元されていますが、彼がこれを見たときの驚きと感慨はいかほどであったでしょうか、、、、 

 右は先回登場した「太陽の神殿」です。半ば木や草に覆われてまさに遺跡発見!といった風情です。ちなみにハイラム・ビンガムは映画で有名なインディアナ・ジョーンズのモデルとも言われていますが、こうしてみるとまさにピッタリです。



 サンクチャリ・ロッジのちかくにフクシアに似た赤い花が咲いていました。

 ロッジのすぐ下からはマチュピチュ村に下るシャトルバスの乗り場があり、小型のバス(マイクロバスよりは少し大きい)が次々と休むまもなく出発しています。
 一方、村から登ってくるバスにはほとんどお客さんは乗っていません。

 私たちは再度、遺跡に入ります。見学を終えた人たちが次々に出てきますが、午後の今、右側の入場口は人影もまばらです。

 このゲートの左のほうに、ここが世界遺産であることを示すプレートの一部が見えています。(左写真の左上)

 冒頭の図に示したように、私たちは左下のマチュピチュ・サンクチャリ・ロッジを出発し、遺跡入り口とあるゲートを再び通り、見張り小屋まで上がっていきました。
 そこからの景色は午前中とはまた趣が異なっています。すでに太陽は西側にありますので、陽は左側から射しています。(午前中は右)



 しばらく道を登っていくと、ちいさな小屋がありました。
 CONTROL PUENTE INKA とあります。ここから先に行くにはここで登録が必要です。ちなみに 
PUENTE INKAは「インカ橋」です。

 途中道端にベゴニアに似た花が咲いていました。季節は南半球で、初冬に相当するので花は少なく期待はしていませんでしたがそれでもいくつかは、、、、


 視界が開けたところで先方に目をやるとウルバンバ川が深く切れ込んだ谷あいに見えました。写真中央から右手奥に向かってマチュピチュ遺跡を囲むようにして遡っていきます。

  同様に中央には水力発電所の導水管もみえます。私たちのいるところは、川の左急斜面の中腹なのです。

 先方の崖にせり出した木々の中に黄色い花を見つけました。




 赤い花もあります。 


 右写真のような案内板を見つけました。
PUENTE INKA (インカ橋)と書いてUターンのしるしです。
 インカ橋まで行って帰ってくる、ということなのでしょう。


 右写真は、所謂インカ道です。こうしてみると何でもない道に見えますが、左の花の写真の上にある、谷の斜面にあるのです。
 そして道幅こそやっと人がすれ違う事が出来るくらいですが、そのつくりは堅牢そのもので、インカ文明お得意の石造り技術が遺憾なく発揮されているように見えます。

  かつてインカ時代に、エクアドルから、チリーまで4000kmに渡ってインカ道幹線道路が南北に二本あり、一つは海岸沿いに、もう一つは、アンデス山中を縦断していたということで、私たちの眼前の道はアンデス山中の幹線に接続する支線のようです。

 木の上にもきれいな葉をした植物が、、、、

 トレッキングの最中に、何度となく鳥のさえずりを聞きましたが、残念ながらその姿はなかなか観ることが出来ませんでした。 でも一度だけシャッターチャンスが、、、、少し遠くに、でしたが、黄色い、かわいい小鳥を見つけました。(右写真)

 そうこうするうち、といっても急な坂道や、一歩踏み外せばウルバンバ川までまっ逆さまの道を、張ってある鉄のワイヤーを頼りにたどり着きました。実際の距離や時間はたいしたことはなかったのですが、そこそこ高山の、緊張の連続のトレッキングでかなり疲れました。
 左上写真の大きく削れたオーバーハングの下に「インカ橋」が見えています。


 近くに来ると詳細を見ることが出来ます。

 オーバーハングした絶壁の両端から、人がやっと通れる道を築き、中央で丸木を何本か渡しただけの橋で接続されています。

 たしかにこうしておけば仮に優勢な敵に攻撃されても、橋さえ落としてしまえばまさに鉄壁な守りとなる事でしょう。

 インカ道をさらに進むと「これ以上通行禁止」とある場所に出ました。
 さすがにこれから先は足場も悪く、目もくらみそうで、許可されても行くのはごめんです。

 過日、TVで「マチュピチュ遺跡」をとりあげた番組がありましたが、そのとき「インカ橋」についてもいろいろ解説していたのを思い出し、今、まさに目の前にそれがあるのは半ば信じられない思いです。

 帰路は当然のことながら順調にすすみました、足のふくらはぎの筋肉痛をのぞけば、、、、

 右は途中で見つけた(往路では気がつかず)測量用の三角点です。



 左写真はおそらくランの一種でしょう。

 さらにいくつかの花を目にしました。日本ではあまり目にしないものばかりで、名前などは不明ですが、でも私たちを十分慰めてくれました。









 「マチュピチュ遺跡」のゲートちかくに、この遺跡の発見者「ハイラム・ビンガム」の記念レリーフがありました。
 ここインカはスペイン人の侵略・略奪によって滅びた事は周知の事ですが、「マチュピチュ遺跡」の発見こそ「ペルー人が先だ!」との説も現地ではあるようです。
 でもインカの人たちがどこかで失笑しているかも、、、、