2016年12月30日金曜日

いよいよ 2016 の大晦日

 2016年もいよいよ大晦日がやってきました。
 「光陰矢のごとし」とはよく言ったもので、暑い寒いと言っているうちにもう今年も押し詰まってしまいました。

 例年のごとくお飾りを作り始めました。
 注連縄の材料にしている百均注連縄は倍額を支払わなければ好みのものが手に入りにくくなってきましたが多少小振りのものをやっと従価で入手しました。
 
 松は毎回書いているように私の散歩コースでは入手が不可能になり、ついにJAの花屋さんで購いました。

 さらにダイダイは春の異常気象で我家のは全滅かと思っていたところ、3個だけ実をつけているのを家人が発見しました、まさにこの3個は玄関飾り、鏡餅そして神棚飾りと使途の個数にピッタリでそれこそダイダイの樹に感謝です。

 またアクセントによく使うマンリョウも木は庭のあちこちにあるのですが、あのかわいい赤い実は一切見られません。仕方がないので今年はウェルカムフラワーのナンテンの実をわけてもらい、ようやくにして上写真のようなお飾りに仕上げました。

 いいかげんな造りですが、玄関に飾るとなにやらお正月らしくなるのが不思議です。 

 ウェルカムフラワーは前述のようにナンテンです。たくさんの赤い実は強いアピール力で心を豊かにしてくれるようですが、同じ花瓶に生けられているカサブランカはなんだか遠慮しているように見えました。




 お鏡は例年どうりに仕上がりましたが、お昼の善哉用に取り分けた分だけ小さくなってしまいました。

 今春のニューフェースは家人の友人にいただいた、「タイ製の竹を編んだ一輪挿し」に折り鶴の木」を飾ったものです。写真左下隅に折り鶴部分を拡大してあります、木の実と大きさを比較してみてください。
 一輪挿し右下に添えられた飾り手毬もかわいいニューフェースです。

 このブログの大きな出来事と言えば開設以来ほぼ5年目の今月末にカウンターが12万を越えたことです。カウンターについての意味は別として、これほど多くの数字になろうとは考えてもいませんでした。

 モットーの「継続は力」を念頭に引き続き注力していきたいと思います。

 先回のブログで取り上げた「1万人目の幸運で、若冲が我家にやってきた」の若冲の複製雪中雄鶏図」です。

 来る年は酉年と言うことでまさにピッタリの絵柄で、いまも当日の興奮を思い出しながらたびたび眺めています。

 













 私たちは来年も健康に留意しながら仲良く過ごしていきたいと思っています、もちろん皆様にとっても幸多く良き年でありますよう祈っております。

2016年12月21日水曜日

1万人目の幸運で、若冲が我家にやってきた

  江戸時代の京都で活躍した絵師である伊藤若冲(1716-1800)は、今年が生誕300年にあたりますので東京・京都などで展覧会が盛大に催されています。

 以前から若冲の絵が好きな私たちは大きな期待をしていましたが、東京都美術館では観るために何時間も待たねば、、、、などと聞いて二の足を踏んでいました。

 ところが幸いなことに名古屋地区でも安城で左のポスターのような催しがあることを家人が新聞広告で知り、それでは何をおいてもと言うことで出かけました。






 開催場所は安城市歴史博物館で、初めて訪れたのですがなかなか立派な建物でした。

 館の南側にも散策できる庭が広がっており、折々には色とりどりの花を楽しむことができそうです。

 遠くに見えているのは笙の塔で、雅楽器のをデザインした、歴史を体感するモニュメント展望台だそうです。



 秋の終わりを告げるモミジがきれいです。 





 こんなに立派な看板もありました。

 それではと展示場に向かったとき見知らぬ紳士に声をかけられました。
 「どちらへ行かれますか?」「若冲さんの絵を観に、、、、」
 、、、、で説明が始まりました。
 この「若冲と京の絵師」展示会で1万人目になりますので行事に立ち会っていただけませんか?とのこと。

 二人ともこのような経験は皆無でしたので、なかなか思考も定まらない状態でしたが。これも経験とてお受けすることにしました。

 次第は、来場者の皆さんに「祝 来館1万人目」のセレモニーがある旨アナウンスがあり、次いで二人でくす玉割り、記念品の贈呈と続きました。
 右写真はいただいた若冲の「雪中雄鶏図」の複製(写真中の左上)と立派な冊子を持っての記念撮影です。
 この画は展示期間の途中で入れ替わり実物は見られませんでしたのでこれもラッキーでした。

 その後、新聞記者の取材を受けましたが未経験の家人にとっては緊張の連続のようでした。

 しばらく時間を置いてから展示室に向かいましたが、このように立派な展示にして入館料は¥300でなおかつ音声ガイドの貸し出しは無料でした。さすが安城は東洋のデンマーク!!

 今回展示されていた美術品を所蔵する細見美術館は、大阪の実業家である細見家三代の蒐集を基に平成10年京都の岡崎公園近く開館したとのことです。

 若冲と言えば誰しも華麗な花鳥図を思い浮かべますが、今回展示の若冲コレクション水墨作品が充実しており、豪快な筆さばきと繊細な細部表現を併せ持った独特な味わいを堪能することができました


 右は『花鳥図押絵貼屛風』で若冲が最も得意とした鶏など鳥の躍動感や、咲き競う花を表したものですが、墨の筆致が見事と言うほかはありません。


 左は『鼠婚礼図』で左上に婚礼の酒盛りを配し、右下に遅れ参じた仲間(それも酔っ払って杯を抱いた友人を尻尾を持って引きずり)を描き、一匹が段の上から早く早くと声をかけている様子を時間と空間の広がりもあわせて表現したのは流石です。
 それ以上に若冲の動物に対する愛情が筆使いの技以上に感じられるのはなぜでしょうか。

 また都で活躍した本阿弥光悦 俵屋宗達 尾形光琳 池大雅 などの作品や工芸品なども合わせ展示してあり大興奮の一日でした。

 というわけで我家にやってきた若冲の雪中雄鶏図」(複製ですが)が玄関に飾られました、お正月用にピッタリです。

2016年12月18日日曜日

「小さな本立て」製作のリクエスト

 家人から久しぶりに製作のリクエストがありました。

 ことの始まりは前回の朝ドラ、高畑充希が主演する「とと姉ちゃん」です。
 こドラマのテーマである雑誌「暮らしの手帖」にヒントを得て家人が1996年版の別冊「101のアイデア」を出してきました、20年も前の雑誌です。
 この中にかつて暮らしの手帖が販売していた「小さな本立て」が紹介されており、私に製作のリクエストがあったのです。

 この本立ては今でも人気があるらしく、ネットでもどこかで売っていないか、、、、などの記事を見かけることがありました。

 下に掲載した「暮らしの手帖 101のアイデア」からのこの記事を読んでみるとなんと驚くことに「40年前に発表した、、、、」とあります。


 ということは今から60年前の商品!!!

 単純化されたデザインと木のあたたかさは見るからに使いよさそうで、今でも決して古臭さを感じることはありません。


 ということで約一ヶ月ほどの構想期間?をおいて製作を開始しました。

 流石にいい加減さを持ってする私でもおおよその寸法は必要ですので、写真を拡大して、記事中にある「2.8センチという板の厚さから、、、、」の部分にヒントを得て左図のようなおおよその寸法を割り出しました。
 幅は不明ですが、のせる本にあわせて適当にしておきましょう。

 使用する材料について、板厚2.8センチのものは手持ちに無く、右写真の2.2センチのもので間に合わせることにしました。

 この板はずいぶん古く見えますが、まさにそのとおりで私が中学時代に使っていた学習机の天板で、机としての使命を終え、少しずつ切り分けて使ってきた最後の部分で奇しくも60年前のものなのです。

 薄く鉛筆で木取線が記入してありますが何とか2個できそうです。(ただしひび割れた部分は使えないので、1個は幅が1cm狭くなります)

 上写真は電動のこぎりで部材を切り出しているところですが、この「電動のこぎり」「電動かんな」「電気ドリル」の日曜大工セットは父から受け継いだものです。

 50年以上たった今でも元気に動いてくれており、あわせて手先が器用だった父を想い出させてくれます。

 切り出した部材は右上のサンダーで表面を磨きます。







 上写真は「小さな本立て」2個分の部材6片ですが主になる2枚の板は「2枚組みつぎ」の手法を使うので加工が少し面倒でした。

 右は仮組み立て中の写真で、「2枚組みつぎ」部分は下部です。
 接合は木工用ボンドを用い、木ネジで固定しますが表面に木ネジの頭が残っては興ざめですので、あらかじめドリルであけておいた中途までの穴の中で木ネジを締め付けます。 そして最後にこの穴は木栓で埋めて表面を平らに磨きます。


 この段階で終わりにしてもいいのですが、白木は汚れやすいので表面処理をします。ニスやワックスという選択もありますが私の好きな「柿渋」を用いました。
 柿渋は使い込んでいくと徐々に色が濃くなり、味わいが増します。


 今回は60年前の商品を手本に60年前の材料で50年前の道具を使って作りましたが、家人が使うこの品がさらに子に、孫に使い続けられたら、、、、などと考えていたら大変楽しい時間を過ごすことができました。

 はい!まちどうさま、、、2チョウあがったよ!!!

2016年11月30日水曜日

晩秋の鎌倉

 11月もそろそろ終わろうかと言う時期に鎌倉へ出かけてきました、気まぐれ以外の何者でもありません。

 今回は由比ヶ浜にホテルを取り、長谷寺に参拝し、大仏さんと久々の再会をし、友人から教わった「段葛 こ寿々」なる店で蕎麦を手繰ろうと言うわけです。

 でも地図で調べて驚きました、長谷寺と「段葛 こ寿々」はずいぶん離れています、およそ2kmはあるでしょうか、まあいいか、、、、

 前日に新幹線の車窓から富士山を撮影しました。お定まりの、富士川鉄橋越しの冠雪富士です、カレンダーの絵のようにうまく撮れました。

 私たちが宿泊したホテルです。
 多少古いですがその分落ち着きがあり十分にくつろげました。

 翌朝少し早起きをして朝食前の散歩に出かけました。
 シャレた家々をあれこれ観察しながらものの10分もかからずに由比ガ浜に出ることができました。


 左写真は東方向にある逗子海岸を遠望したものです。
 
 天候はあまりよくはありませんが雨の心配はなさそうです。

 朝食は洋食を頼んでおきましたが、配膳方式で気を良くしました。この歳になるとビュッフェ・スタイルは疲れます。

 ホテル前の由比ヶ浜大通りから西側を望むと突き当たりに長谷寺の大屋根につけられた金色の飾りが見えました。なるほどこの道路は「観音大通り」とも称されるのでしょうか。(写真中の右上)

 昨日ホテルに着いたときにはこの道路は渋滞していましたがさすがに朝は車も少なく、まだ開店してはいないものの古い店々の佇まいも楽しみながら歩を進めました。

 まもなく山門に到着しました。赤い大提灯が下がっていますが、浅草の浅草寺をはじめ観音様を祭ってあるお寺にはよく見かけるようですが何故かはわかりません。

 きれいに刈り込まれた門前の松と写真中の右側に見えるタブの樹(椨 クスノキ科)が印象的でした。

 ここの本尊である十一面観音像の由来は、大和の長谷寺奈良県桜井市)の開基でもある徳道楠の大木から体の十一面観音を造り、その体を本尊としたのが大和の長谷寺であり、もう体を祈請の上で海に流したところ、その15年後に相模国の三浦半島に流れ着いたとありますが像の高さは9.18メートルもあり、木造の仏像としては日本有数だそうです

 これを鎌倉に安置して開いたのが、鎌倉の長谷寺(海光山慈照院)であり長谷観音とも呼ばれているのです。

 長谷寺は花の寺とも呼ばれ紅葉も期待していたのですがほどほどでした。


 境内の回遊路にはアジサイなどが多くあり、季節には佳い眺めになることでしょう。
 そんななかでもいくつかの花が彩りを添えていました。
 ピンクのシュウメイギクは珍しい?



 




 こちらはシャクナゲですが季節はずれです。




 濃い赤が際立った黒光と言う名前のボケ(木瓜)ですがこれも少し早いようです。





 ふと足下の側溝を見ると先日降った11月にしては記録的な初雪の名残がありました。


 さらに裏山の高みに登ると由比ガ浜と鎌倉の街並みが見渡せました。







 展望台の案内図に従って裕次郎灯台なるものを超望遠で狙ってみました。
 真偽のほどはわかりませんがそれらしいものが沢山のウィンドウサーフィンの向こう側に写っています。

 裕次郎灯台と言うのは故石原裕次郎の三周忌を記念して兄慎太郎が基金を募って建てたものだそうで、正式には葉山灯台といいます。


 長谷寺をゆっくり時間をかけて見物したのち、大仏さんに再会するために出かけました。前にお会いしたのは中学の修学旅行のときでしたからもう60年も経っています。

 長谷寺のすぐ前の参道に古い建物があって何か案内板がありました。

 それによればこの建物は僊閣(たいせんかく)という明治末期からの旅館でかつて高浜虚子がホトトギスの会を開いたとか、与謝野晶子や島崎藤村の奥方が宿泊した歴史が語られる、、現在も営業中。

 絵様肘木風の持ち送り板で支えられた正面の高欄や欄間窓など、社寺建築で見られる意匠が多用された建物です。鎌倉市景観重要建築物にも指定)
 
 この大仏様は大異山高徳院清浄泉寺(しょうじょうせんじ)の本尊(阿弥陀如来像 国宝「鎌倉大仏」「長谷の大仏」として知られています。

 鎌倉時代に造られましたが室町時代にかけて大風、地震、津波などかさなって建物はありません。
 なお本像の鋳造に際しては宋から輸入された中国銭が使用されたとか、、、、

 料金¥20也を払って大仏様の体内にはいってみました。
 左写真の黒い穴が頭の部分で、その周りにはってあるテープ状のものは耐震補強のFRPです。
 さすがに草鞋も大きいです。

 そろそろお昼のことが気にかかり始めたので冒頭地図の右上、鶴丘八幡宮の蕎麦屋さんに向けて由比ガ浜大通りを東に進みます。

 途中で見かけた鎌倉彫のお店です、何かこだわりを感じます。

 昨日休息のため立ち寄った蕨餅のお店で今から行く「段葛 こ寿々」と同じ店ですがここでは蕎麦は商っていません。

 ようやく六地蔵の交差点までやってきました。
ここは、鎌倉時代、問注所での裁の結果、有罪となった者処刑場の跡地供養のため六体の地蔵が建てられたとのこと。(右端の物陰にもう一体あります)

 六地蔵の背後にある、松尾芭蕉の「夏草や兵どもが夢のあと」が刻まれた句碑にちなんで、この辺を「芭蕉の辻」とも呼ぶそうです。

 この句は奥州平泉で詠まれたものですが、鎌倉にも似合う句ということなのかもしれません。


 ようやく鎌倉駅の西側に到着です。
 隣接した小さな公園に時計塔がありました、調べてみるとこれは昭和59年(1984)旧駅舎を建て替えた際それまであった屋根の上のシンボルをここに移して保存しているとのことでした。

 二の鳥居へ着きました。この奥が鶴丘八幡宮ですが時間の関係でここからのお参りです。

 この参道のことを「段葛(だんかずら)」と呼びますが、この名は、葛石を積み上げて造られたことによります。


 またこの「段葛」は参拝者に鶴岡八幡宮を遠くに見せるため先に行くほど狭く造られています、遠近法の手法は古くからあったんですね!

 そんなわけでこの老舗の蕎麦屋さんの名前「段葛 こ寿々」も納得です。

 左写真の右下の看板もいっそうありがたく見えます。

 やっとお昼にありつきました。
 これが「こ寿々蕎麦」で、お皿に盛った蕎麦の上に天カスと海苔、薬味そして中央には大根おろしが盛ってあり、その上から汁をかけまわして食べるのですが、きわめて腰の強い蕎麦との相性は抜群で、ひさしぶりにおいしい蕎麦をいただきました。

 
 私たちはほとんど待つことなく席に着くことができましたが、食べ終わって外に出たとき、路を歩く人の「ここはいつも混雑している店なんだけれど、きょうはずいぶん空いてるね」という会話を耳にしました、ということは、、、ずいぶん幸運でした。

 おなかも満ちて元気が出てきたので、もと来た道をまたゆっくり江ノ電の由比ヶ浜駅まで再度散策することにしました。

 上写真は途中見かけた紅葉した蔦です。


 由比ヶ浜通りを江ノ電の由比ヶ浜駅近くまで来たとき、帰りの電車の中で食べようと麩まんじゅうを求めました。
 この店は「麩帆(ふはん)」という名の知れた生麩の店で、笹で包んだ麩まんじゅうは皮がしっかりしており中の餡のすっきりした甘さがなんともいえないものでした。

  由比ヶ浜駅で電車が入ってくる様子です、車両は何種類もあるようですが、昔からあるようなおとなしい塗装です。
 今日はひさしぶりによく歩きました、後でチェックしたら16000歩をこえていましたが古い町を気ままに歩くのもいいものだと感じました。