ことしもゴールデンウィークがはじまりました。例年だと子供たちが孫を連れてどっと押しよせるのですが、孫も成長するにつれ、それぞれの仕事?があって来られず、ことしは静かな連休になりそうです。ということで家人が古いアルバムの整理を始めたので、私は私の分を、、、、
いろいろ整理していく中で、1990年にドイツへ出張したときの写真を見つけました。そういえばラジオで「マンションの建設ラッシュなどで、かつてのベルリンの壁がどんどんなくなっていく、、、、」と報じていたのを思い出しました。
ベルリンの壁の開放は1989年11月9日とされていますが、これは東ドイツ政府が「旅行者の国境通過を大幅に緩和する、、、、」旨の公表をかなり曖昧に、さらに緩和すると思われる発言(失言?)をしてしまい、即時に東ドイツ市民が何万と国境に押しかけ、あっという間に国境を通過して事実上開放してしまった事によります。
当時は天安門事件(1989.6.4)のあとでもあり、武力弾圧などは当時の為政者にとって出来る状態ではなかったのでしょう。
左はそのとき国境検問所近くでもらった、国境開放証明書です。もちろんジョークでしょうが大切に?保管してあるのを見つけました。誇らかに「1989.11.9 Offnung der Grenten(国境開放)」と謳っています。
右写真はその国境検問所、チェックポイント・チャーリー (Checkpoint Charlie)です。ここでは東西分裂時代、多くの悲喜こもごもなことが起こった事でしょう。東西ドイツの合併はこのあと5ヶ月経った1990年10月3日の事ですから、まだ国境検問所は機能しており、このあと正式に手続きをして東ドイツに入ったと記憶しています。
そしてこんな立て札が、、、、「ここから先はアメリカの権限が及ばないところだよ!!!」
その右手には西側市民が手に手にハンマーを持って壊し始めた「ベルリンの壁が、、、、」
はるかかなたまで続いていました。
右写真のこの場所は壁が大きく壊されており、その壊された部分が少し、木材で補修してあります。
また見上げると、よく映画やドラマに出てきた監視哨がありました。もう安全だとわかっていてもなんとなく緊張してカメラを構えているのは23年前の私です。
何を狙っていたかお分かりでしょうか?
じつは壊れた壁の向こうに東ドイツ兵がいたのです。
公式にはまだ国境は存在しますので、壊れたところを監視する任務を負っていたのでしょう。
二人の兵士たちはまだ若いと見えましたが、壁のこちらからヤンキー娘たちがキャーキヤー声を上げて冷やかしているのです。
さすがに彼らは恥ずかしそうに下を向いたまま我慢をしていました。
あの東西の冷戦時代を超え、これが平和でなくてなんなのでしょう。(でも現在はまた別の意味での、、、、)
そうこうしているうちに、「旦那、旦那、、、、」と声をかけられました。
壁を壊す道具を貸すというのです!!!
いくばくか払って私もベルリンの壁の取り壊しに手を貸しました。コンクリート製ですが、やってみると結構硬いものですぐに汗が出てきました。
というわけで下の写真(これは、しまいこんであったものを今しがた撮ったものです)
ポリ袋に入れてあったので、今でも当時を思い出させるようなにおいもします(気のせい?)。
そしてあの壁にあった色はまだ褪せていません。古いアルバム整理がとんでもないところに行ってしまいました。
これではいつになったら整理できるのか?
冒頭の話ですが、もしベルリンの壁が消失してしまったら、残るのは私の手の中だけ???
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